蕉 門
河合曽良
慶安2年(1649年)、信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)に生まれる。幼名は庄右衛門与左衛門。両親が亡くなったため母方の岩波家の養子となり、庄右衛門といった。養父母が亡くなったため伊勢国長島の親戚に引き取られる。 |
伊勢長島の地を流れる木曽川と長良川から「曽良」という俳号が付けられたともいう。 天和3年(1683年)夏、谷村藩の国家老高山麋塒宅で芭蕉に師事した。曽良35歳の時である。 |
曽良何某、此あたりちかくかりに居をしめして、朝な夕なにとひつとはる。我くひ物いとなむ時は柴をくぶるたすけとなり、茶を煮夜は来たりて軒をたゝく。性隠閑を好む人にて、交(まじはり)金(こがね)をたつ。ある夜雪にとはれて |
きみ火をたけよき物見せん雪まろげ | ばせを |
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貞亨4年(1687年)、宗波と共に「鹿島紀行」の旅に同行。 |
いまひとりは、僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にも渡りぬべく、門より舟に乗りて、行徳といふところに至る。舟をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力をためさんと、徒歩よりぞ行く。 |
元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅に同行。 |
曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。
『奥の細道』 |
8月5日、曽良は山中温泉で芭蕉と別れ、伊勢へ先立つ。 |
曾良は腹を病て、いせのくに長島といふところにゆかりあれば、先立て行に、 |
と書置たり。行もののかなしみ、のこるもののうらみ、雙鳧(そうふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、 |
『奥の細道』 |
8月5日、全昌寺に泊まる。 |
8月9日、敦賀に到着し、金ヶ崎を訪れた後、船で色の浜に赴いて本隆寺で1泊、翌10日、常宮に詣で、更に西福寺に参詣。 9月2日、芭蕉は大垣に着く。3日、曽良は伊勢から大垣へ芭蕉を迎えに来る。 |
翁行脚のふるき衾あたへらる。記あり略之 |
美濃 |
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首出してはつ雪見ばや此衾 | 竹戸 |
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題竹戸之衾 |
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疊めは我が手のあとぞ紙衾 | 曾良 |
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10月7日、曽良は伊勢長島から伊賀に滞在中の芭蕉を訪ねた。 |
伊賀の境に入て なつかしや奈良の隣の一時雨 |
元禄3年(1690年)、曽良は上京。素堂は餞別の句を贈っている。 |
曾良餞別 |
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汐干つゞけ今日品川をこゆる人 | 素堂 |
元禄4年(1691年)5月2日、曽良は落柿舎に芭蕉を訪ねている。 |
二日 曽良来リテよし野ゝ花を尋て熊野に詣侍るよし。 武江旧友・門人のはな〔し〕、彼是取まぜて談ズ。 |
くま路や分つゝ入ば夏の海 | 曽良 |
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大峯やよしのゝ奥を花の果 |
元禄6年(1693年)、芭蕉は杉風、曾良の勧めに応じて「水辺のほととぎす」を詠んでいる。 |
頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句、 |
と申し候に、また同じ心にて、 |
宮崎荊口宛書簡(元禄6年4月29日) |
元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の庵をたって郷里伊賀へ帰る。 |
先月二十五日の御状、小川氏より届けられ候て、拝見いたし候。小田原まで御送りの礼、島田より一通たのみ遣し候。相届き申し候や。貴様御帰りの日に御書付、道々も次郎兵衛と申しやまず候。箱根山のぼり、雨しきりになり候て、一里ほど過ぎ候へば、少し小降りになり候あひだ、畑まで参り、小揚に荷を持たせ候て、宿まで歩行いたし候て、下り三島まで駕籠かり、三島に泊り候。
河合曾良宛書簡(元禄7年閏5月21日) |
元禄13年(1700年)、曽良は芭蕉庵の翁七回忌で追悼の句を手向けている。 |
俤や冬の朝日のこのあたり |
宝永6年(1709年)、幕府の巡見使随員となり九州を廻る。 |
宝永六辛丑春 |
筑紫紀行 | 曽良 |
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春に我乞食やめても筑紫かな |
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旅人の名は残るはツ花 | 素檗 |
元文2年(1737年)、『雪満呂気』(曽良遺稿)周徳編。周徳は曽良の甥。 元文5年(1740年)、周徳は諏訪の正願寺に供養碑を建立。 文化4年(1807年)、藤森素檗は曽良の百回忌を記念して『続雪まろげ』を刊行。 |
天保11年(1840年)7月4日、田川鳳郎は下諏訪を訪れている。 |
曽良ハ当地の産にして翁殊に憐ぶかく睦じかりけるが、翁しばらく滞杖有し比、発句に一篇の文を添残されたり。可惜(おしむべし)其家絶て、かの文のミ残れり。名づけて「雪丸げ」と呼び、此地の名物と成りて伝りけるハ世にしれる所也。 |
くりかへし麦のうねぬふ小蝶哉 花の秋草にくひあく野馬哉 鴬やうは毛しほれて雨あがり 古夜着も今朝疊なすしめ餝 しら濱や何を木陰にほとゝぎす ほとゝきす待とる梅の茂り哉 浦風に巴をくつす村千鳥 病僧の庭はく梅のさかりかな 枯野塚もてなせけふの朝みそれ 三日月や影ほのかなる抜菜汁 晝からの客を送て宵の月 ならひ居て庭に月見る作男 涼しさや数の子ふやす滝の下 うき時は蟇の遠音も雨夜哉 動きなき岩撫子やほしの床 うき時は蟇の遠音も雨夜哉 すゞしさや此菴をさへ住捨し しら濱や何を木陰にほとゝきす 向のよき宿も月見るちぎり哉 根の土を袂にはたくわかなかな |
昭和13年(1738年)、『曽良随行日記』が発見された。 昭和18年(1943年)、山本安三郎が『曽良奥の細道随行日記』と題して翻刻した。 |