寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌記念集『麻刈集』(士朗編)。
寛政7年(1795年)、藤森素檗は尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』。
寛政8年(1796年)5月、『松の炭』刊。蕉雨編。士朗序。
寛政10年(1798年)6月9日、美濃路を経て木曽に入る。
寛政11年(1799年)、『幽蘭集』(暁台編)。臥央校。士朗序。
享和元年(1801年)2月、士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ旅をする。3月18日、江戸を立ち信州へ。『鶴芝』。
享和2年(1802年)11月2日、『むぐらのおく』(南江)士朗序。
享和3年(1803年)春、名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立。
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さむ空にたゞ暁の峰の松
文化元年(1804年)5月16日、岳輅は名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立。
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万代や山の上よりけふの月
文化元年(1804年)、『枇杷園句集』桂五序。岳輅跋。
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文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は枇杷園で俳諧興行。『萍日記』
文化6年(1809年)、『暁台句集』(臥央編)刊。士朗序。自跋。
文化6年(1809年)、倉田葛三は九州行脚の途上、井上士朗を訪ねている。
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八朔や松の位がほの見ゆる
| 葛三
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ひやりと鶴の雲に添行
| 孔阜
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月の舟池の向ふへつきやりて
| 士朗
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文化7年(1810年)9月、『枇杷園随筆』(士朗編)。秋舉・大蘇序。
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七十の春をむかへて
月雪にやしなはれてぞ花の春
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蟹殿洞々は井上士朗を訪れているようである。
つくしの果まて見めくり来て、さ
かみのくにへかへるといふ洞々に
見なれたるものこそよけれ不二の山
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文化9年(1812年)、『惟然坊句文集』(中島秋擧編)。朱樹叟士朗序。
文化9年(1812年)、『萍窓集』。尾張朱樹叟士朗序。
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文化9年(1812年)5月16日、71歳で没。
いつのむかしならん、柴扉に杖をむかへて『鶴柴』の三吟ありしも、たゞめのまへのやうなり。
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さみだれて我宿ながらなつかしき
右、哭士朗翁
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同年、士朗の追善に信濃の善光寺に詣で、魂祭を行う。『信濃札』(素檗編)
文化10年(1813年)、『枇杷園句集後編』刊。卓池序。秋挙跋。
文化14年(1817年)夏、鶴田卓池は井上士朗の七回忌追善を1年繰り上げて誓願寺で行う。追善集『たかむしろ』刊。
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文政11年(1828年)、法界寺住職正阿ら士朗の句碑を建立。

またも来ん清水の里の菫草
門下に桜井蕉雨がいる。
松島の五大堂に句碑がある。

日のくれぬひはなけれどもあきの暮
愛知県豊明市の二村山に句碑がある。

み佛は大同二年すゝきかな
愛知県犬山市の尾張冨士大宮浅間神社に句碑がある。

たうたうと瀧の落ちこむ茂りかな
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