俳 人

井上士朗
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士朗の句

 尾張守山の人。加藤暁台の門人。初号支朗。別号枇杷園、朱樹叟。名古屋新町の町医井上家の養子となる。医号は専庵。

尾州名古屋 

士朗    
   井上専庵 


尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれたそうだ。

名古屋三俳人の一人。

名古屋市の久屋大通公園に「名古屋三俳人句碑」がある。


名古屋三俳人句碑

くさめして見失うたる雲雀哉
   也有

椎の実の板屋根を走る夜寒かな
   暁台

たうたうと滝の落ちこむ茂りかな
   士朗

 寛保2年(1742年)、守山に生れる。

 安永3年(1774年)4月、井上士朗は上京の途上水鶏塚を訪れている。

ゆくゆく船つとふ津島の川つたひ水鷄なく佐屋の驛に入て爰に芭蕉翁の墳を拜す


 安永3年(1774年)4月9日、士朗は暁台のあとを追って上京。10日、暁台・士朗は丈芝と共に東山吟行。

明れは丈芝とく來りて吾徒の此に出合侍る事あらかしめうけひていひ合するともよもかゝるかたらひのまたうあらんやと泪を落して悦ひあへりけふよりの興は師とはかりて都の友かきをくし出んといふまゝたれかれともに東山あさく見めくり地主にまうてゝ

   あらしふけ地主の櫻實や落ん
   都貢
  
   藤つゝしおもへは夏のはしめ哉
   定雅
  
   あやしくもあらす人聲の山若葉
   美角
 ミチノク
   夏陰や鐘に石うつ田舎ひと
   丈芝


 安永3年(1774年)4月、士朗は蕪村暁台等と共に嵯峨に吟行。

嵯峨吟行
  
   みしか夜の闇より出て大井川
   蕪村

   筏踏て鮓桶あらふ女かな
   几菫

      雅因か苑在樓に眺望して

   みとり深く夕雨めくる嵐山
   曉臺

   夏の山たゝ岑丸く成にけり
   宰馬

   小倉山鹿の子やわたる路の欠
   士朗

   桐咲て嵯峨にあてなる色香哉
   仝


 天明3年(1783年)、『風羅念仏』(法会の巻)。士朗序、はせを堂蘭更跋。

 寛政2年(1790年)2月9日、士朗・羅城・臥央等7人は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。

二月九日 晴天夜に入雨降

一、河合秋山老、御城代同心渡辺源右衛門殿、井上宣安老、幸蓮寺、吉田□□殿、臥央丈、筍大丈、〆七人、供三人、翁笈拝見に御出。御酒支度等致す。晩方御帰り。

『千代倉家日記抄』(伝芳日記)

寛政二庚戌二月之拝

梅見ても鶯見てもなみだ哉 枇杷園井士朗

   武隈の松、有礒の稲根、おもひを
   千里にめぐらし、情を山川に
   走らせしも、此笈を友とせし
   とぞ

陽炎やそゞろにむかししのぶ草
   羅城

しら梅の白き処や啼ちどり
   岱青

笈百年只今唯見る春暮し
   紀鳳

春風にむかしの笈の匂ひ哉
   筍大

   笈ををがみて其
   むかしをしのぶ

百とせや実月華の玉手箱
   臥央

おもふにもすぎてあはれや苔の花
   卓池

『蕉翁笈拝見録』

伝芳は千代倉本家七世。亀洞(学海)の養嗣。亀良。

 寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌記念集『麻刈集』(士朗編)。

 寛政7年(1795年)、藤森素檗は尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』

 寛政8年(1796年)5月、『松の炭』刊。蕉雨編。士朗序。

 寛政10年(1798年)6月9日、美濃路を経て木曽に入る。

 寛政11年(1799年)、『幽蘭集』(暁台編)。臥央校。士朗序。

 享和元年(1801年)2月、士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ旅をする。3月18日、江戸を立ち信州へ。『鶴芝』

 享和2年(1802年)11月2日、『むぐらのおく』(南江)士朗序。

 享和3年(1803年)春、名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立。



さむ空にたゞ暁の峰の松

 文化元年(1804年)5月16日、岳輅は名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立。



万代や山の上よりけふの月

 文化元年(1804年)、『枇杷園句集』桂五序。岳輅跋。

 文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は枇杷園で俳諧興行。『萍日記』

 文化6年(1809年)、『暁台句集』(臥央編)刊。士朗序。自跋。

 文化6年(1809年)、倉田葛三は九州行脚の途上、井上士朗を訪ねている。

八朔や松の位がほの見ゆる
   葛三

ひやりと鶴の雲に添行
   孔阜

月の舟池の向ふへつきやりて
   士朗


 文化7年(1810年)9月、『枇杷園随筆』(士朗編)。秋舉・大蘇序。

   七十の春をむかへて

月雪にやしなはれてぞ花の春


蟹殿洞々は井上士朗を訪れているようである。

   つくしの果まて見めくり来て、さ
   かみのくにへかへるといふ洞々に

見なれたるものこそよけれ不二の山


 文化9年(1812年)、『惟然坊句文集』(中島秋擧編)。朱樹叟士朗序。

 文化9年(1812年)、『萍窓集』。尾張朱樹叟士朗序。

文化9年(1812年)5月16日、71歳で没。

いつのむかしならん、柴扉に杖をむかへて『鶴柴』の三吟ありしも、たゞめのまへのやうなり。

さみだれて我宿ながらなつかしき

   右、哭士朗翁


同年、士朗の追善に信濃の善光寺に詣で、魂祭を行う。『信濃札』(素檗編)

 文化10年(1813年)、『枇杷園句集後編』刊。卓池序。秋挙跋。

 文化14年(1817年)夏、鶴田卓池は井上士朗の七回忌追善を1年繰り上げて誓願寺で行う。追善集『たかむしろ』刊。

文政11年(1828年)、法界寺住職正阿ら士朗の句碑を建立。



またも来ん清水の里の菫草

門下に桜井蕉雨がいる。

松島の五大堂に句碑がある。


日のくれぬひはなけれどもあきの暮

愛知県豊明市の二村山に句碑がある。


み佛は大同二年すゝきかな

愛知県犬山市の尾張冨士大宮浅間神社に句碑がある。



たうたうと瀧の落ちこむ茂りかな

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