蕉 門
各務支考
美濃国出身。伊勢山田で岩田涼菟に俳諧を学ぶ。別号に野盤子、東華房、西華房、獅子庵、蓮二翁、黄山叟などがある。 |
支考字盤子。號二東花西花一。亦號二獅子庵一。濃州之産也。
入二蕉門一。業二風雅一。一方門人也。先師滅後遊二東西南北一。説二風雅一而助二諸生一。
故往々慕二支考風一者多矣。中遇二居于勢州山田一。後歸二故國一作二俳書數篇一。辨二俳諧之論一。
『風俗文選』(許六編) |
元禄3年(1690年)3月、26才のとき岩田涼菟の紹介で近江粟津の無名庵に芭蕉を訪ねて門下となる。 元禄4年(1691年)閏10月23日、芭蕉は新城在住の太田白雪に案内され、鳳来寺山に登山した。天野桃隣・各務支考、白雪の子桃先・桃後らがこれに従った。 元禄5年(1692年)春から夏にかけて奥羽行脚。 |
東行餞別 |
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此こゝろ推せよ花に五器一具 |
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支考遠遊の志あり、これにを(お)くるに、 |
白河の関にみかへれいかのぼり | 其角 |
盤子、白川へ行脚を聞て |
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鉢の子に請よ桜はちりぬとも | 智月 |
象潟の紀行 | 野盤子 |
支考ことし文集つくらむとおもひ立ことありて、奥羽の間に行脚せしころ、雨山の呂図司かしこくあなひして、其国の名所あまた初見侍し也。 |
すゞ風や蚶の入江を持ありく |
元禄6年(1693年)2月2日、呂丸は京都で客死。 |
追悼 |
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死に来てそのき佐良支の花の陰 | 野盤子 |
元禄7年(1694年)9月8日、芭蕉は支考、惟然を連れて、難波へ旅立つ。 |
九月八日、支考、惟然をめしつれて、難波の方へ旅立ち給ふ。こは奈良の舊都の九日を見むとなり。 |
元禄7年(1694年)、『芭蕉翁追善之日記』(各務支考) |
元禄8年(1695年)7月15日、『笈日記』自序。 元禄9年(1696年)、十丈は伊勢に涼菟・支考を訪ねる。『射水川』 元禄11年(1698年)4月20日、難波津を門出。6月小倉、7月9日長崎、9月下関に着く。『梟日記』 元禄12年(1699年)、『西華集』(支考編)刊。 元禄12年(1699年)、『十論為弁抄』(支考著)。 元禄12年(1699年)、支考は大垣を訪れ木因と歌仙。 元禄13年(1700年)9月、『東華集』(支考編)刊。 元禄14年(1701年)、支考は京を出発して、近江から越前、加賀、越中の旅をする。6月、今石動を訪れ、3ヶ月間観音寺住職濫吹のもとに滞在した。『東西夜話』(支考編) 元禄15年(1702年)2月20日、浪化は支考の案内で去来を訪ねる。22日、支考と共に都を離れ丈草を訪ねる。23日、許六を訪ねる。支考は再び北陸行脚。 元禄16年(1703年)10月9日、浪化は33歳で没。『霜のひかり』(支考編) 元禄17年(1704年)、『山中集』(涼菟編)刊。支考序。 宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・去来編)刊。この集の名に因んで支考の手許にあった芭蕉の句「日にかゝる雲やしばしの渡り鳥」を贈った。 宝永2年(1705年)、支考は讃岐伊予の間を徘徊、川之江の大師堂を訪れている。 |
宝永3年(1706年)、支考は越後を行脚。 |
戊子のとし東花坊・越後にあそふ、そのあそひを四巻になして越の余波と名つく、をのをの俳諧にあそふ人といふへし、
『越の名残』(支考編) |
宝永5年(1708年)4月、支考は木曽から越後へ旅をする。『夏衣』(東花坊) 宝永5年(1708年)7月より9月13日まで直江津および高田に滞在。30日余り新潟に滞在。 宝永6年(1709年)、『白扇集』(支考編)。 宝永7年(1710年)3月17日、京都東山の西行庵に「かな書の碑」建立。 正徳元年(1711年)、46才のとき郷里に帰り獅子庵に住んだが、以後も美濃を中心に俳諧の普及に務めた。 正徳5年(1715年)、各務支考は観音寺に姿を隠し自ら死んだとして追善集『阿難話』を出す。 享保2年(1717年)、観音寺に獅子庵を建てる。 享保3年(1718年)、『本朝文鑑』(支考編)。 享保4年(1719年)8月24日、支考は福増屋に千代女を訪れた。 享保5年(1720年)まで観音寺に滞在。 享保8年(1723年)、『露川責』(各務支考)。 享保12年(1727年)、『和漢文操』(蓮二房編)。 享保13年(1728年)、『桃の首途』(里紅編)刊。蓮二坊序。 享保14年(1729年)、也柳は美濃に支考を訪ねるが、支考は疝痛療養のため長良川畔に病床を移していた。 享保15年(1730年)3月12日、百花台嵐技は色紙塚を建立。蓮二坊書。 享保15年(1730年)8月、『三日月日記』自序。 享保15年(1730年)、『藤の首途』(里紅編)刊。支考序。 |
元文2年(1737年)10月12日、支考七回忌法要追善で也柳は秋田市の不動院に師資塔を建立。 |
寛保3年(1743年)2月7日、芭蕉五十回忌、支考十三回忌追善で雲裡房は仙台市の榴岡天満宮に芭蕉の句碑を建立。 |
芭蕉翁 | あかあかと日はつれなくも秋の風 |
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蓮二翁 | 十三夜の月見やそらにかへり花 |
宝暦5年(1755年)3月、近青庵北溟は俳諧伝灯塚を建立。 |
五月雨の夕日や見せて出雲崎 | 東華坊 |
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荒海や佐渡に横たふ天の川 | 芭蕉翁 |
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雪に波の花やさそうて出雲崎 | 盧元坊 |
宝暦9年(1759年)4月、廬元坊の十三回忌に斜日堂連中は「三世塚」建立。 |
牛呵る聲に鴫なく夕へかな | 梅花坊 |
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古池やかはつ飛こむ水の音 | 芭蕉翁 |
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住み飽た世とは嘘たり月と花 | 廬元坊 |
宝暦13年(1763年)、竹阿は道後円満寺で支考の三十三回忌に出席。「法莚序」を書いている。 明和5年(1768年)4月12日、盛岡市の天満宮に芭蕉塚を建立。 |
右 梅花開一重に彌陀の彼岸哉 | 東花坊 |
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左 居らんとして烏の行衞かな | 幾暁庵 |
安永6年(1777年)10月12日、雲裡坊七回忌で五老峯故貝は笠森観音に支考の句碑を建立。 |
安永7年(1778年)より8年(1779年)の春までに肥後宇土の円応寺に四考塚を建立。 |
背面に西華坊の「闇にくる秋をや門で夕涼み」という句が彫ってあったと伝えられている。 |
天明6年(1786年)3月12日、鳳明社白翁は岡山の少林寺に三翁碑建立。 |
文化3年(1806年)3月、野村白寿坊は「永観堂連塔」を建立。 |
文政13年(1830年)2月7日、支考の百回忌に支考の句碑を建立。 |
山梨県上野原市の諏訪神社にある芭蕉の句碑には芭蕉の句と並んで、東花坊の句が刻まれている。 |
稲妻に悟らぬ人のとふとさよ | はせを |
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虻の目の何か悟りて早がてん | 東花坊 |
山梨県上野原市の長峰砦跡にある芭蕉の句碑には芭蕉の句と並んで、連二房の句が刻まれている。 |
古池や蛙飛こむ水の音 | はせを |
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あかりてはさかりて明けては夕雲雀 | 連二房 |
福岡県吉富町の天仲寺公園にある美濃派の句碑に「牛阿る声に鴨たつゆふへ哉」の句が刻まれている。 |
若菜摘足袋の白さよ塗木履 山吹に金ほしからぬう治もなし 雪霜の骨となりてや梅の花 若葉つむ日は心せよ疝気腹 あをむくは損なり金はちる紅葉 羅の内に脳めり合歓の花 雨蛙なけや茄子の花見せむ 春雨やまくらくづるゝうたひ本 杉の葉の雪おぼろ也夜の鶴 歌書よりも軍書にかなしよしの山 牛阿る声に鴫立ゆふへかな 遠からぬこの極樂やほとゝぎす 招山を訪ふ 更科の月をどふ鳴ほとゝぎす 鶯の寢ざめや四月五月まで 佛だに姨捨山や五月闇 卯の花に祈り過たる曇哉 菊の後外に花なし月の影 |