俳 人

至 長
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郷部村の真言宗仏伝山神光寺住職。蹄阿上人。

 文化元年(1804年)、妻を亡くして、42歳で出家。京都の智積院での修業。

 文化7年(1810年)4月、神光寺の住職になる。

 文化7年(1810年)10月12日、義仲寺の時雨会に参列。

坊か子の螺ふけは行しくれ哉


 文化12年(1815年)10月24日、一茶は新井から高谷に入る。

   四 陰 終日 荒井ヨリ高谷ニ入

『七番日記』(文化12年10月)

この時、安養寺で句会が開かれたらしい。

至長も句会に参加したようだ。

安養寺


至長の句

麦秋にしはがれ声の僧都哉


素麺(さうめん)の細きはしより天の川


雲の峰蟇の見はりて暮にけり


錦木の夜毎にふへ(え)る蛙哉


漣をあふぎ立たる清水かな


索麺(さうめん)の細き筋より天川


蝶飛やねからあゆまぬ初太郎


「初太郎」は長男のこと。

はつ霜や鳩の嘴する敷むしろ


蝶とぶやねから歩まぬ初太良(郎)


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