尾花もあとへまねぐと見るに、いつか山根の里、毛呂の碩布が橿寮につきたるなり。洗足に客ぶりをこしらひ、押しならぶに、さらに髪仕たる子の買助てふがいで來て、こゝの家がり來る人は、誰々もみやげせよなどせむるも睦まじ。且つ句あり。はし書は長かりける、
武蔵野に雁をいたはる此のやどり 巣兆
あぢはへてきかす時がらなり。
『そゞろごと』 |
碩布は関西にも旅をしているようである。
黄鳥をいくつも見たり東山
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文化2年(1805年)8月、碩布は「穂屋祭記行」の旅に出る。
文化4年(1807年)10月、碩布は湯島に庵を結ぶ。
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文化四卯十月湯嶋に庵をむすびて
しぐれもる家ももてばや新しき
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文化14年(1817年)、碩布は春秋庵を継承。江戸に出る。
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春秋庵にて
江戸なれた後になしたし此あつさ
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春秋庵のために碩布先生江戸住居するの嬉しさやまひもうちわすれて
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文政元年(1818年)6月12日、葛三没。
鴫立葛三をいたむ
虎か雨又ふる事の出來にけり
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文政6年(1823年)9月13日、碩布は海晏寺で白雄三十三回忌法要を行う。
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先師の三十三回忌
ますものハ露はかりなり後の月
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文政7年(1824年)5月、碩布は「善光寺詣」の旅に出立。
同年、『春秋稿』(第八編)。桜井梅室序。
文政9年(1826年)、『布鬼圃』。
文政12年(1829年)3月、毛呂山町川角の南蔵寺に芭蕉の句碑を建立。
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大正3年、川角の八幡神社境内に移転。
八幡神社の芭蕉句碑

道傍のむくけは馬に喰はれけり
碩布は逸淵に春秋庵を譲る。
天保11年(1840年)、碩布は本庄駅の安養院で八十八の寿賀会を開く。判者5人の中に逸淵がいた。
天保13年(1842年)、富処西馬は高崎市の清水寺に芭蕉の句碑を建立。
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観音の甍みやりつはなの雲
碑前手向
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はせを忌のひとふしなれや花のかけ
| 碩布
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天保14年(1843年)11月9日、碩布没。
川村碩布門に山本坊、細村青荷、野口有柳、上州高崎の俳人久米逸淵、江戸の梅笠がいた。
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山本坊は毛呂山町西戸の国津神神社に芭蕉の句碑を建立している。
安政2年(1855年)、碩布の十三回忌に『碩布居士発句集』(逸淵編)刊。
安政6年(1859年)3月、細村青荷は児玉の八幡神社に碩布の句碑を建立。
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春の水ゆふ山はれて流れけり
慶応2年(1866年)、細村青荷は句碑建立を記念して『春水集』を出版。
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青荷は碩布の庵号橿寮を継いだ。
碩布の母も俳諧を嗜み、俳号を其水といった。
其水の句
鷹飛て柘植に身を啼雀かな
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妹も俳人で、俳号を几秋といった。
蕉翁に園女あり、鳥酔に星布あり、几秋あれど其師おとりぬるぞくちをし。
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几秋の句
つまにわかれし此秋を
むさし野に住かひもなやけふの月
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