俳 人

富処西馬
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 本名は富処弘門。通称豊治郎。初号樗道。別号惺庵。高崎嘉多町の志倉家の養子となる。児玉の春秋庵久米逸淵の高弟。

西馬 一号蕉林又俵□子 東都新橋惣十郎町 惺庵

 暮過や眼にわするれは鴫の声 西馬


 文化5年(1808年)、高崎田町に生まれる。

 文化6年(1809年)10月5日、母町子は20歳で病歿。母の姉志倉家の養子となる。

 天保4年(1833年)、可布庵に入塾。俳号樗道。

 天保8年(1837年)、毛軒西馬と改号。

 天保9年(1838年)、逸淵に文台を譲られ、惺庵と号す。

   門人西馬の文台披露に

梅老て柳にゆずる垣根かな   逸淵

 天保12年(1841年)の暮、榎戸村の玉芝亭を訪ねる。

吹上の水辺公園に西馬の句碑がある。



いふ事もせまるばかりぞ年の暮

 天保13年(1842年)3月、清水寺に芭蕉の句碑を建立。記念句集『花の雲』



観音の甍みやりつはなの雲

 天保14年(1843年)、関西遊歴中、伯母が病歿。本姓富処氏に復帰する。

 天保15年(1844年)、奥州行脚に旅立つ。

奥州行脚の首途に望んで前途三千里の思ひ今更に覚て

笠の蝿さすかに憎うなかりけり

   勿来古関

若葉にも鳴や勿来の呼子鳥

 弘化3年(1846年)、江戸新橋宗十郎町に惺庵を構え、惺庵西馬と称した。

 嘉永3年(1850年)、『鳳朗發句集』(惺庵西馬編)刊。百濟堂如息序。

 嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。



松島に明ころの□はなれけり

 嘉永5年(1852年)、『おらが春』刊。惺庵西馬跋。

 嘉永6年(1853年)1月、早風・芳春・如泉は芭蕉の句碑を建立。惺庵西馬書。



[旅人]とわか名呼れん初時雨

 嘉永6年(1853年)、『海内俳家人名録』(花屋庵鼎左・五梅庵舎用編。惺庵西馬校合)護持院梧青序。

 嘉永6年(1853年)6月3日、ペリー来航。西馬はこれを見に行った。

 安政2年(1855年)、西馬が行司役で「発句大会番付表」を作る。

 安政3年(1856)7月、ハリスが米国総領事として下田に来航。西馬は幹雄を伴って見に行った。

 安政5年(1858年)、逸淵は円筒形の鋳造句碑を建立。記念集『すみれ塚集』。



山路來て何やらゆかしすみれ草

   祖翁発句塚供養

山路来て何やらゆかし菫草
   翁

 てふのやとりのさたかなる月
   逸淵

ぬるミ引つくミ手洗の水かへて
   西馬

 問へも受るも声をひそむる
   弘湖

安政5年(1858年)8月15日、没。51歳。

名月の方へころばす枕かな

前橋市の宝禅寺に西馬の句碑がある。



実をむすぶおもひやけふのかれ尾花

成田市の児明神に西馬の句碑がある。



五月雨ぬ樹はなかりけり児の原

門下に春秋庵三森幹雄がいる。

新町宿北口の俳人久保一静は西馬の門下。

安政2年(1855年)6月、一静は弁財天に芭蕉の句碑を建立。



むすふより早齒にひゝく泉かな

西馬の句

福引にしてとらせけり京ミやげ


散るよりも切てまハらや芥子の花


鳥もまた寝に来ぬ木より后の月


   隅田漫興

夜のはるのさかりになりぬ朧月


むしろから立や日くれの花の波


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