蕉 門
浪化上人
浄土真宗の僧。東本願寺十四世法主琢如の子。法名は応真院常照。向井去来に学ぶ。応々山人。『浪化日記』。 |
延宝5年(1677年)、7歳の時得度して越中国井波瑞泉寺十一代住職となる。 |
元禄7年(1694年)閏5月、嵯峨の落柿舎で芭蕉に会う。 |
越中の御堂東御門主の御舎弟、浪化と申御隠居、御門跡御遷化に付上京、忌中ながらに去来迄被レ尋致二対顔一候。門人に可レ被レ成由達而御申候を、色々断り申候へ共、さまざま御断り御申候而、門人の約束致候。
杉風宛書簡(元禄7年6月24日付) |
百景や杉の木の間にいろみ草 | はせを |
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箒を杖にわらふ山公家 | 浪化 |
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隣からいはひと雛の餅くれて | 去来 |
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元禄7年(1694年)12月4日、浪化は去来の書簡で芭蕉臨終の様子を知る。 元禄8年(1695年)1月11日、加賀に赴き暫く逗留。芭蕉の百ケ日を迎える。 |
ことし乙亥のむ月加賀の金沢に旅寝す。たま |
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たま蕉翁の百ケ日に逢侍れば、句空・北枝が |
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等(ともがら)をまねき、終にこの日の作善(さぜん) |
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をおこす。 |
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即 興 |
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問残す歎のかずや梅のはな | 北枝 |
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春も氷にしづみつくいけ | 浪化 |
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田を返す馬の鞍蓋こしらへて | 句空 |
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元禄8年(1695年)3月上旬、『ありそ海・となみ山』(浪化編)成立。去来後見。丈草序。 元禄8年(1695年)3月中旬、京に入り去来に会う。惟然は浪化を旅館に訪ねている。 |
惟然子に旅館を問はれてしはらく語ル |
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即席 |
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惟然 |
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冷しさを吹こめぬるゝ板疊 |
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百日紅に殘る日のいり | 浪化 |
親犬をおもたがる程取巻て | 其継 |
元禄10年(1697年)、惟然は奥羽行脚の途上、浪化を訪ねている。 |
浪化公にて興行 明やすき夜や何々に打むかひ |
元禄11年(1698年)4月7日、十丈は浪化を訪ねている。 |
卯月七日。今日高岡十丈野角来ル。其夜ハ自遣堂ニ会ス。
『戊寅集』 |
元禄11年(1698年)11月上旬、『続有磯海』(浪化編)刊。 |
元禄12年(1699年)、浪化は倶利伽羅峠を越えて金沢に行く。 |
元禄13年(1700年)、義仲寺から小石3個を持ち帰り、翁塚を建立。 |
元禄14年(1701年)6月、支考は浪化を訪れる。7月16日まで滞在。 元禄14年(1701年)7月3日、風国没。 |
悼風國 いなつまに筆を投たるたより哉 |
元禄15年(1702年)1月15日、京へ旅立つ。16日、金沢に滞在。24日、義仲寺に立ち寄る。 元禄15年(1702年)2月20日、支考の案内で去来を訪ねる。22日、支考と共に都を離れ丈草を訪ねる。23日、許六を訪ねる。 |
元禄16年(1703年)12月、追善集『霜のひかり』(支考編)「終焉記」。 宝永6年(1709年)、『白扇集』(支考編)。 慶応元年(1865年)7月、『浪化上人發句集』序。 |
水鳥の胸に分ゆく櫻かな 待春や机に揃ふ書の小口 よき夜ほと氷るなりけり冬の月 一本をくるりくるりと花見かな 筍や道のふさかる客湯殿 卓散につゐても足す梅の花 花咲て目白の旅や廿日ほと 呂風亭にて 黄鳥や谷の心て藏のあい 水風呂の夜になる初のミそれかな 鶯の柳にそまる小雨かな その射水川は萬葉の姿に流て、む かしの姿もなつかしけれは、此度 集の名となすへきよし、文通にき こへけれは 集の名の寐覺も凉し射水川 落さふな雲の茂ミや時雨先 松風のひき捨を啼うづら哉 松風のひき捨をなく鶉かな うくひすや爪にもかけぬ梅の花 祖父婆もともに白髭(ママ)や虫の声 青空に底のぬけたる暑サ哉 首立て鵜のむれのほる早瀬かな 人込の中へしたるゝ柳哉 麻からを踏をる背戸の月見かな 人ごみの中へしだるゝ柳かな |