俳 人

三秀亭李喬
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 岡崎城主本多中務大輔忠良の男忠寛。松露庵烏明に俳諧を学ぶ。母は家人柳沢氏。俳名春望亭柳波女。雪中庵蓼太に師事。

 寛延2年(1749年)、下総古河城内に生まれる。幼名弁之助。初めの名は忠倚。

 寛延4年(1751年)7月15日、忠良は62歳で死去。母子ともに江戸の藩邸に移る。

 安永7年(1778年)、母を伴い岡崎に赴く。

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に岡崎伝馬町の十王堂に芭蕉の句碑を建立。記念集『旅の日数』(李喬編)刊。



都出て神も旅寝の日数哉

 文化元年(1804年)、江戸に帰る。

 文化5年(1808年)、母柳波女没。

 文化8年(1811年)、江戸森下の下屋敷で没。63歳。

FONT size="4"color="blue"> 李喬の句

咲初し日をこそしらね松の花


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