俳 人
中村耒耜
『俳人住所録』(文政4年)には「耒耜 豊浦クラカリ峠ノ下 中村八右衛門」とある。 |
寛政8年(1796年)、耒耜は大和行脚の途上桜井の吐雲邸を訪問している。 |
大和路の杖はしめ とても消るいのちよし野の花の露 奈良の京や空はむかしの春の月 しかり人の有まて手折野梅哉 |
寛政11年(1799年)12月12日、暗峠の街道筋に芭蕉の句碑を建立。 |
寛政12年(1800年)、記念集『菊の香』(耒耜編)刊。不二菴桃居序。『菊の香』は現在所在不明。 |
享和元年(1801年)、『河内名所図会』(秋里籬島)刊。 |
はせを翁の句碑を見て |
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匂ふ名の石ともなりて菊の露 籬島 |
近頃、寛政十一年己未十二月、豊浦村の耒耜、此句碑、椋ヶ嶺峠(くらがねとうげ)街道の側に建てゝ蕉翁の一百遠忌の追福とす。また諸方の俳師の句を聚めてこれを小冊とし浪花の二柳の序ありて菊の香と題号せり。
『河内名所図会』 |
文化4年(1807年)6月、三津人は耒耜と象潟を訪れる。『みつうまや』(三津人編)。 |
文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙を携え住吉大社に参詣。 |
人々にたつさへられて住吉の神詣しけるに正印殿といへるに昇ていともかしこきミ有さまを拝む |
文化7年(1810年)3月22日、俳諧堂開眼會。『菊苗集』刊。 文政8年(1825年)6月、俳偕堂社中は耒耜の句碑を建立。 |
うき草に誘れもせず鴛の恋 なく蛙水のけぶりをふまへけり 奥山は何が降やら遅ざくら 雨の日は古里寒き早苗かな 山里のゆふべらしさハ添水かな すゞしさの穴があく也軒の樫 口切のすぐにかは(わ)くやゆりの花 奈良の松壽叟はこの業の手垂にて 蕉翁の像をつくりて送るさちに、 一宇をいとなみて俳諧堂と唱ふ。 野を燒や海のあかりは松の月 梟の一夜騒ひで春の雪 枕家具の堅地つかふて後の月 木芽にも口うこかすや四十雀 旅人の拝む仏が霞けり 人の気の欲なき時そかきつはた あらし山鳥のさかりとなりにけり はや人の家建に来る野うめかな 庵の道鹿の通ふて人もふむ 遠く見るものゝひとつぞ残る雪 大山に隠里あり帰り花 鍵かりて明る家ありうめの中 明行や千鳥の声の水になる |