俳 人

松本乙児

本名は松本五郎右衛門。渋谷六花門、のち大島蓼太門。

 享保9年(1724年)、駿府の商家に生まれる。

 宝暦12年(1762年)頃駿河国吉原に六花庵を構え、のち駿府にも同庵を結ぶ。

 明和6年(1769年)6月24日、蝶羅は奥羽行脚の帰途、吉原に泊る。

   よしハら泊の夜、六花庵主訪ハれて、廿とせ
   余りのむかしものがたりに、互の白髪を笑ふ

六月や又新しき不尽の雪
  蝶羅

 けふ凉風を田子に呼つぎ
  乙児

   春麗主人のみちのく戻りを、ひと夜草庵に
六花庵
塩がまの噺しになびく蚊やり哉
  乙児

 松の落葉を捜す陀ぶくろ
  蝶羅


 明和7年(1770年)5月12日、時雨窓六花庵社中芭蕉の句碑建立。



駿河路やはなたちはなも茶のにほひ

 明和8年(1771年)、大島蓼太は芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興。乙児は江戸へ。

明和9年(1772年)4月5日、49歳で没。

   既白乙兒蘿來つゝいて古人と成し七月六道の珍篁
   寺にて

誰も來よかれもとかなし迎鐘


官鼠は六花庵を継承。

安永9年(1780年)4月5日、乙児の句碑を建立。



夏山のくれ残したる入江かな

富士市岩渕にある芭蕉の句碑に乙児の句が刻まれている。



風になびくその富士川の螢かな

乙児の句

(きぬた)から足袋屋へ秋の行衛哉


うかうかと月の出て居るかれ野哉


聞知た寺の鐘さへ秋のくれ


   鎌くらにて

屋敷ひとつもたぬかゝしはなかりけり


   鎌倉にて

屋敷一つ持ぬ案山子もなかり鳬


何となく二月になりし柳哉


行水によりかゝりけり夏柳


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