此日難波の旧国のぬしも此家に来りて都の物がたりに、猶行さきのしるべをも聞えあはせて、覚束なき心もなぐさむ。
安永2年(1773年)10月12日、旧国は義仲寺の時雨会に参列している。
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寛政12年(1800年)7月、大坂を出発して東海道を江戸に出て、陸奥・常陸を遊歴し、信濃を経て帰国。81歳の時である。『あがたの三月よつき』
享和元年(1801年)2月、『俳諧袋』(大江丸編)刊。雪中菴蓼太・雪中庵完来序。
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文化2年(1805年)3月18日、84歳で没。
『三韓人』には「文化二年三月十七日没」とある。
大江丸の句
竹の子やもふ一つ身の胸あはす
はせを忌やむかしを今にうつくまり
しくれ会やけふこそくもれ鏡山
嘘つかぬ里も過たり山さくら
芭蕉忌や長等の山もけふこそは
其中のひとつは落よ凧(いかのぼり)
あはびむく伊勢の浦人春さびし
此道や行けと時雨にかき曇り
芭蕉忌や蠅の障子をたゝくにも
元日や鴬もなかでしづか也
鹿の音のほそりて明ぬはつ時雨(※「雨」+「衆」)
香をかりて梅の林に入る夜かな
初午や戸に拍子とる盲児
さくさくと藁喰ふ馬や夜の雪
夢にも人にあはぬと聞えしはむかしにて
乗掛の角刀(ママ)に逢ぬ宇津の山
露ごとに月やどる夜の光哉
芍薬やおくに蔵ある浄土寺
わか恋は松をしくれの十二日
我恋は松をしくれの十二日
名人の場もうちこして春の月
竹の子や身ハうツセミのからしあへ
おし鳥は一夜わかれて恋をしれ
はつ袷梅見しほとの寒(さ)かな
木々の芽にはや遠山の入日哉
遊ふにもものかた寄らす春の月
梅わかをうしろに船か着て候
八陳の桜出べき門戸なし
せめてもの雨弄ふ五月哉
梅をれといふ人うめの長者也
自像画
春の花こんな親爺じ(ぢ)やなかつたに
彼岸の蚊釈迦のまねして喰れけり
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