俳 人
佐藤魚淵
[十]九 晴 長沼魚淵文通 六十八文扇代来ル
『七番日記』(文化7年12月) |
文化13年(1816年)11月、一茶は記念集として『迹祭』を代撰。 |
六 晴 『迹祭』六十部信州送
『七番日記』(文化13年11月) |
魚淵宛て書簡(文化13年12月2日) |
文政2年(1819年)4月30日、一茶は善光寺新町の門人文路と魚淵を訪れる。 |
卅 晴 魚[淵]ニ入 文路ト今井衆中牡丹一見
『八番日記』(文政2年5月) |
九月十六日、正風院菊会 桑さげて神農顔や菊の花 |
「神農」は古代中国の伝説上の帝王で、医術、農耕の祖。魚淵は農業のかたわら漢方医を業とした。 |
今も猶としとしの花の臺(うてな)哉我庵を狭しと牡丹咲にけり |
芭蕉の句碑 ![]() 河上登古乃川志毛や月の友 天保5年(1834年)6月11日、80歳で没。 魚淵の句
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