俳 人

佐藤魚淵
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佐藤信胤。別号正風院。「長沼十哲」の一人。

文化7年(1810年)12月19日、長沼の魚淵から扇代68文が届く。

   [十]九 晴 長沼魚淵文通 六十八文扇代来ル

『七番日記』(文化7年12月)

長野市穂保に守田神社がある。


守田神社


守田神社の前に芭蕉の句碑と魚淵(なぶち)の句碑がある。

右に芭蕉の句碑。


道のべの木槿は馬にくはれたり

文化9年(1812年)10月、魚淵(なぶち)が建立。

建立を記念して一茶が『木槿集』を代撰。

次いで魚淵は桃青霊神を森田神社に勧請、社殿を造営。

 文化13年(1816年)11月、一茶は記念集として『迹祭』を代撰。

   六 晴 『迹祭』六十部信州送

『七番日記』(文化13年11月)

同年12月2日、一茶は魚淵に成美の死を知らせている。

成美老人も、六十八を一期として、十一月十九日に仏となり申候。

魚淵宛て書簡(文化13年12月2日)

 文政2年(1819年)4月30日、一茶は善光寺新町の門人文路と魚淵を訪れる。

   卅 晴 魚[淵]ニ入 文路ト今井衆中牡丹一見

『八番日記』(文政2年5月)



   九月十六日、正風院菊会

桑さげて神農顔や菊の花


正風院は魚淵の別号。

 「神農」は古代中国の伝説上の帝王で、医術、農耕の祖。魚淵は農業のかたわら漢方医を業とした。

魚淵の句碑


今も猶としとしの花の臺(うてな)

我庵を狭しと牡丹咲にけり


 文政7年(1824年)、70歳の時に茨城県久慈郡大子町で芭蕉の句碑を建立している。

芭蕉の句碑


河上登古乃川志毛や月の友

天保5年(1834年)6月11日、80歳で没。

魚淵の句

赤菊やむざんにあびし背戸の雨


箒の伏屋と申あきの雨


薪割か絵ときしにけり涅槃像


萩ちるや一杵車水のとぶ


薪割が絵ときしにけり涅槃像


大空や理屈のとれし秋の暮


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