俳 人

高橋一具
indexにもどる

高橋(高梨)氏。名は愚春。別号夢南。断橋。一具庵。乙二門。

一具 中橋北槇町油ノ坐   一具庵


一具 一号断橋又抱愚 東都中橋槙町御油座 一具庵

 木からしや待は久しき明の鐘   一具


 安永9年(1780年)、出羽国村山郡楯岡村に生まれる。

楯岡村の浄土宗本覚寺に入り、得度。

 文化12年(1815年)6月、乙二と共に須賀川の市原多代女を訪ねる。

 文政2年(1819年)、福島大円寺の住職となる。

 文政6年(1823年)、江戸に出て井筒屋の番頭豊島久藏と親しくなる。

 文政6年(1823年)正月25日、多代女は須賀川を立ち、2月3日に江戸に着く。一具庵夢南の許で約3ヶ月滞留した。

 文政6年(1823年)7月9日、一具は帆津倉の凉谷宅で句を詠んでいる。

水やそらこの曙の桐一葉   夢南

 文政6年(1823年)7月9日、乙二は68歳で没。

   阿翁の訃音を旅中に聞て

水や空この曙を桐ひと葉
   夢南


 文政8年(1825年)、『松窓乙二発句集』(一具・古翠編)刊。

 文政9年(1826年)3月15日、『たねおろし』素鏡自序。一具、跋。

 文政13年(1830年)、『塩たはら』(白老編)。一具序。

 文政13年(1830年)7月19日、一具は漆山の半沢二丘を伴い最上稲沢の稲州を訪れる。

 天保4年(1833年)6月25日、一具は稲州を訪れる。

 天保6年(1835年)、『乙二七部集附録』(一具道人・布席編)。

 弘化4年(1847年)、『俳諧一茶発句集』(嘉永版)一具序。

 嘉永3年(1850年)10月、『潮のはな』(等哉編)断橋一具序。佳峰園等哉跋。

 嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑を建立。



一具の句が刻まれている。

松島や水無月もはや下りやみ

 嘉永6年(1853年)3月28日、東御市の大日堂に俳額を奉納。撰者は江戸の高梨一具と白眼台月村。

 嘉永6年(1853年)4月、半沢二丘は立石寺根本中堂に芭蕉の句碑を建立。一具書。



閑さや巖にしみ入蝉の声

一具の句が刻まれている。

左羽に夕日うけつゝほとゝきす

嘉永6年(1853年)11月17日、急逝。享年73。

深川の霊岸寺に葬られた。

一具の句

下総は遠山のみぞふゆ椿


棟揚の欝金の足袋や曇る空


雨雲やよし切のなく麦のなか


鼡尾花(みそはぎ)をあかの他人にもらひけり


旅人のはやくも見知る乙鳥哉


   阿翁の訃音を旅中に聞て

水や空この曙を桐ひと葉


春雨やあすは上野へ用もある


五月雨や机の下の火打筥


すごすごと打もひろげぬ畑かな


蒲公英やはしめて働(うこ)く峰の雲


羽抜鳥啼比広しすみだ川


人来れば行灯むける青田かな


春の月仏事過たる釜のうへ


高野にも町人ハありゑひす講


鳩吹はあの男かや森を出る


知り安(易)き人のこゝろや春の花


俳 人に戻る