五升庵蝶夢
『松しま道の記』
宝暦13年(1763年)3月半ば、蝶夢は越中の蕉露を伴い木曽路を経て松島を遊覧。5月7日、京極中川の庵に帰る。 |
吉野・はつせの花に酔ひ、和歌・吹上に汐風をひき、与謝・はし立の雪にこゞえしにも、なをこりず、まや・明石の霧もめづらしからで、今としは、松島や雄じまの月のいかならんと頻にゆかしくおぼへて、越の蕉露が同じ癖あるをそゝのかし、半閑室の几に留別の一句を残し、錫も草鞋も取あへずすゞろにうかれ出るは、弥生半也けり。 朝風や東をさしていかのぼり |
庵にちかき幸神の社は、世にいへる出雲路の道祖神にして、みちのく笠島は此御女神にて渡らせ給ふと聞ば、外ならで途の守りを祈り、はや逢坂の関こゆるより志賀のあたりうち霞て、むかしわすれぬ花ぐもり、哀になつかし。粟津の原なる翁の塚にむかひて、 みやうがあれ奥の細道霞とも |
東海・北陸のわかれ路にては、いづれの日か爰に帰り来んと、胸ふたがる。三上の麓、鏡山過がてに見て、老曾の社は、まだ時ならねばおもひ出にせん初音も聞へず。いさや川の辺のやどりを朝とく出るに、蕉露がいぎたなきに戯て、 眠たがる連も呵らじ床の山 |
伊吹の峯白ふして、山おろし寒ふ寐物がたりの夢やぶるべし。関の藤川も、今は藤子川と呼ぶ。「荒にし後は」と詠給ひし不破の関は、跡だになし。野上の里は遊君の名だゝる所なりしも、 なつかしや茶を摘歌も所がら |
青野ゝ原に一本の老たるを「物見の松」とこそ、南宮のうしろを「美濃ゝ中山」といふとかや。青墓に太夫朝長父子の墳ならびたり。 さばかりの泪にかれず春の草 |
湯舟山といふ所は伊勢造営の木を伐出すとて、杣小屋のけぶりたえず。昨日にかはりてうらゝかなる空に、こゝら野馬の多くむれ遊ぶは、都にしらぬながめ也。玄旨法印の、「布引・箕面にもおとらで」など書れし小野ゝ瀧は、此頃の雨になを玉をけづり霰をとばす。寐覚の里なる「寐覚の床」といへるは、さしもの木曾の川せまりて、岩こす浪の色目さまし。行さきは「名にしおえる棧わたるよ」と、かねて胸とゞろく。 かけ橋やうかと見られぬ山ざくら |
横雲と共に福島の関立でれば、夕べには似ず雪の白妙なるに、明残れる月の寒げに照わたり、こゝの尾上かしこの谷陰には、桜のいとおもたげに雪の下に咲出たるは、「空にしられぬ」といふ気色にもあらず。かく雪月花を一時に詠るは、いかなるすくせある日にや。巴が淵・山吹の平、行々て洗馬といへる平原の地に出づ。馬頭初見米嚢花も暗に思ひあはせらる。桔梗が原の古戦場に首塚といふ所多し。蕉露が句あり。 その時の俤見する茅花(つばな)かな |
塩尻峠を登れば、諏訪の湖づらは今も氷をしきたる如く、富士のかげさだかにうつり、釣りする舟は時しらぬ木の葉を散せり。高島の城は波の中に涌いで、御射山の笠木は木の間に横り、穂屋の薄はまだすゞろにていとねよげなり。其外、平沙のほし網、漁村の炊烟、すべて一眸に入る。気蒸雲夢沢、波撼岳陽城もかくやとばかり、 春風の行わたりてやすわの浪 |
春秋の宮に心経をずし、宮つこに御渡の事などたづねて、此駅に相しれる岩波氏のもとへ訪ひよれば、あるじ、まめやかにあひしらひ、家の前なる出湯に入らしむ。かくて和田峠の羊腸にかゝる。道はのこんの雪、所せきまでかさなりて、寒き事かぎりなし。山路のならひ、俄に日くれぬ。空は墨を流せしやうに、ものゝあや見えず。とある家についまつ求出し、うちふり、からうじて麓のまだ寐ぬ家をたゝきてねぶる。 翌ればまた、長窪の宿より、野道を一すぢに、 寝て見たき所ばかりぞ春の草 |
上田の町、鼠宿・柏尾といふ所は、御醍醐の皇子の配所とか。筑摩川は綱をたぐりてわたる。「春ゆく水はすみにけり」のこゝろを蕉露、 春もやゝ底迄ぬるきちくま川 |
河中島は甲越の雌雄を決せし所とかや。大河左右にながれ、高山四方をかこみて、実も地理そなはりて覚ゆ。幸(犀)川をこして、善光寺なる元水の坊に尋まかでけるに、はや四年むかしの人と成りて、其弟子に水音といへる法師の、なにくれと心づかひなど侍りけるに、此比のこうじぬるをやすめぬ。 夜半より御堂に通夜す。心すみてかたじけなし。暁方に御帳を挙るには、堂内ゆすりみちて称名す。須弥壇の下を囲繞するを戒壇巡り、六道巡りとかやいふなる。そこともしらず聞き所を念仏して廻る。心細うもいと尊し。 かの道もかふかとかなし朧月 |
戸隠山はあれかとばかり布引山うち見て、八幡のやしろかうがうし。神前にまける銭を里の子のひろいて、鷄をいだき来り、何やらん祝詞申て社壇へはなちやる事あり。いはれ有にや。こゝの庄司官何某は、さる風流のしれものと聞て立より、姨捨山の道の事など尋るに、やがて老たる男に命じて道のしるべさせけり。姨石の陰に一宇の草堂建り。一重・二重・冠・有明などいふ山、前後にめぐり、更科・筑摩の流れ帯のごとく、そこら幾らとなき山田のならべるにうつるをぞ、「田毎の月」とはいふなりと。あはれ爰に日を暮さまほし。 なわしろや田毎にのこる足の跡 |
海野・小諸を歴て、浅間の嶽の下にいたる。五六里にわたりて不毛の地なりと。けふは山風はげしく土砂をあぐるに、雨さへそひて煙も見えず。血河は、あたかも人の血のほと走るかと、おそろし。遠近の里を跡に、碓日の峠は思ひしよりもめやすく、絶頭より望めば、関東の国々薺の如し。「我嬬」と呼玉ひしも、爰よりとなむ。 |
横川の関過て、妙義の山にさしかゝる。指を立しやうに巌そばだち、立ならびたる峯の、唐の絵に書たるおもかげおぼえて、たぐひなし。松・杉しげりし中に、玉をゑり金をちりばめし宮殿、目を驚す。木のふり山のたゝずまひ、めちかゝらぬ事のみ。銅の華表に「白雲山」と標しぬ。 安中・高崎の府を、倉加野より日光の道に入る。伊香保の沼・佐野ゝ舟橋も遠からずと。御領の関の戸は利根の川なみ漲りて冷(すさま)じく、坂東太郎とは、此川をいふとかや。此辺りに脇屋・大館・篠塚など、『太平記』にしるせし人々の住し所、すべて村里の名となりつ。新田の庄、大光院は、義重朝臣より左中将まで伝領の地也と。 足利に至りては、魚遠といへる人のねもごろに沙汰せしかば、学校の吏案内して、聖堂へ東階より上る。帷の中に安置せし聖像は、宋の時渡せしとぞ。金の団をも給へり。右の壇は参議篁の卿の肖像、左は蓍室也。顔・曹・思・孟の神主をはじめ、ホ・キ・ヘン・荳の祭器等かざり置り。中門の額は、宋朝の人の筆となん。世になき異国の文ども、多く秘め置るとかや。 囀りもよのつねならぬ雀かな 何寺とかや、足利義兼の草創にして、数百年の色残れり。佐野・天明を出て、惣社村、室の八島の明神に参る。木だち物ふり、宮立おくまりたり。池の形せし叢に、かたばかりの八ツの小島有りて、各小祠います。神さびわたりて、いと殊勝也。何とやらん法楽の句奉りしも、かいわすれぬ。 黒川をかちわたりして、壬生の城下に入。此あたりより大杉の列木、日を覆ひ雨をもらさず。日光の御山には永観坊を宿坊とし、寺の童を先達にして、山菅の朱の橋に肝をけし初しより、かけまくもかしこく金殿・玉楼の三ツ葉四ツ葉に造りみがゝれしはいふもさらに、異国もかうやうにやと拝奉る。雨いたくふりければ、つらなりし軒の金の瓦一入にうるはし。 山吹や流るゝ雨もをのづから |
黒髪山は霞こめて、おくあるけしきも、かへり見がちなり。「今朝は衣更する日」と人のいふに、 綿ぬきてまづ歩行よし旅ごろも と独ごちて、今市を奥道へ、大渡より絹川のはや瀬をこえ、不生・玉生・高内など行過れば、はやくも奈須野ゝ原なり。道縦横にわかれて、かぎりしられず。殺生石はいづくぞと、 鎌の刃も牛も届かぬ夏野かな 芦野の宿はづれに、道の辺の清水いさぎよく、柳のみどりかげうつりて、立さりがたし。 風呂敷を持せて涼し柳かげ |
境の明神の宮、白坂を越れば、「いつかは」とおもひし白川の関山見えたり。夏木立うるはしく、余花の梢かつがつに、麓の小田の青き苗の中に田鶴の下りゐるも、めづらかなり。いにしへ竹田太輔が衣紋つくろいて通りしふる事、かたり出て思ひつゞけしもありしかど、さのみはくだくだしと例のもらしつ。桜が岡・なつかし山・杜鵑山と聞だにゆかし。 |
阿武隈川打わたれば、岩瀬の杜なり。浅香の沼は田と成て、早乙女のうたひつれたる声賑はしく、浅香山は影さへ見えぬ小さき山なり。山の井は是より遙の山陰なりといへば、立もえよらず。安達が嶽の裾をめぐりて、しのぶの山ふかく、もじ摺の石もじ摺の石と尋ねもて行ば、苔むしてふりたる石の面、さも有ぬべし。かしこに観自在立せ給ふ。霧に埋れし堂の扉に、洛の亡友臘舟が手して 、 もじ摺や誰ふところの片しぐれ と落書せし墨の色、幽に残りたり。さらぬだに、旅の心の一度はかれが行脚の昔をしたひ、一度はいづくの土や我をまつらんものと涙もろなる。伊達の大木戸といへる山の下にはびこれる松をこそ、「判官殿腰かけ松」とはいふめる。鞍割坂・鐙すりの切所は、けはしさ車をかへすべし。槻木はなれて、玉崎の里を山にそひ、野を横に笠島の道祖神にまふでゝ法施奉る。陰形の捧ものする事、今にたへずと。馬塚は祠のうしろに、中将の墓は塩手とかいへる在所の藪の中に石二ツ三ツかさねたり。 古塚や筍ほりの来る計 と手向しぬ。 |
名取川より程なく、仙台の町に宿る。翌ればまづ、松しまに心せかれ、おくの細道・十苻の菅沼を見やり、壺の碑の前なる芝についゐてつくづく思へば、天平宝字のむかしより宝暦の今に至りて、桑田の海に変ぜしも幾度にや。かくならの葉の古き世の名ごり、それなりに目の前に見る事、雲水の身ならではとかしこくもおぼゆ。 |
塩竈のやしろは結構つくせり。泉の三郎の奉納の燈籠に「文治三年」の文字ありありと、御釜の古雅なる、「禹の九鼎」とも伝べし。所の長、潮月の許より下知して、千賀の浦はよりともづな解て出るは、まだ午にならざりけり。折から糠の雨けぶりて風なく、海の面、綾を敷しごとく、いと静にして櫓の音のみ。凡、島々の松が枝は、雨に翠の色をそへて江の色にゑいず。漕まはし漕まはりて雄島の磯にさし寄るに、名残おしく蓑うちまとひて、竹の浦・小松崎・梅が浦などかぞへがたし。 瑞巌寺・五大堂そこら拝巡り、月見が崎なる家に宿り、欄干につら杖つきて見わたせば、砂清く塵なき干潟に多くの鶴のあさる風情、めもあやなり。はや夕日波をこがし、鐘の音、樹々にかよふ。沖の島かげにいざり火のほのかに見へ初るより、やがて宵月の涼しく夏の霜ををける、みるめ晴たるけしき、六月はなかるべしと羨し。 島々をかぞへればつい明に鳧 と蕉露がうめき出けるに、心づき寐なんとすれば、明告る鐘の響に又もや朝の風色見んと浜に出て、浪間の小貝などひろふ。けふは日ほがらかに、空は洗ひしやうなれば、海士の小舟やとひて、きのふ見ざりし高木の引網、磯崎の汐けぶりのいとまなきをながめながめて、富山の梵音閣に登れば、麓の入江をはじめ千鳥くまなく、金花咲の島山まで名残なく、黛の如く掌の上にあざやかなり。誠や、「六十余国の中に似たる所なし」と書れしも、むべなりけり。立つ居つ物ぐるをしく神を奪はる。振かへり振かへりあかず覚えて、帆のすみやかなるをうらむ。 松しまや帆のふくるゝも青あらし |
「千鳥啼なり」の玉川は細く流れ、すゑの松山は野の中に、 まつ山や麦の浪こす寺の門 緒絶の橋も踏まよはで、玉田・横野・宮城野原は渺々たるのらに、萩ともなしに千種のしげりあふのみ。 夏草やさすがに萩は刈残し |
もとあらの里には、「ことなる萩の有し」と記せしもしたはしくて分入る。むかし、長櫃十二号に入て上りし人だに有をと、手折て頭陀におさむ。薬師堂は木の下露に日かげすゞし。躑躅が岡の桜馬場に若侍の馬せむるも、みちのく武士の姿いかめし。「都の土産に見きといはん」と武隈の松をたづぬ。いでや、此松の栄枯度々なる、元善・季通は茂りしを称し、能因・西行は枯しをなげかれしに、いづれのころ植しにや、二木の陰たれて千とせの色ふかし。 一木づゝ調べ合すや青あらし |
竹駒の神社は藤中将を勧請せしと。はゞかりの関のあと、白石の城、甲冑堂などたどるともなふ、下紐の関の辺りに着ぬ。此所は奥より出るものゝ制ある所なりと聞て、しかじかの旨言入れば、関守なる人、「さは聞ゆる法師なり」と一間に請じ入られ、もてなしこまやかに、「一夜はぜひ」ととめまどへど、兎角こしらへ馬にかき乗せられて、人々関の外まで見送る、八町目は、鼓が岡の名にひゞく所なり。「安達が原の黒塚に」と詠たる鬼は、此辺りの君どもなるべし。だみたる声して今やううとふに、夜も夜ならでさわがし。 二所が関こえ、もと来し下毛野をたゞちに、宇津の宮過て見わたせば、筑羽根の葉山しげ山の陰はれらかに、古河の渡り・栗橋の関屋は、利根のしら浪うちよする程なり。杉戸・千住など雨たゞふりに降て、笠おもく蓑を通してしのびがたし。 やうやうむさし野ゝ草まくらは、増上寺の中なるしたしき友の房にし侍りて、夫より足をそらに、或は霞の関の白壁造りに建つゞけし、あるは玉河の茶の水に汲ほさるゝなど。角田川に猪牙舟の飛ちがふにも、遠くも来にけりと、 つくづくと我巣は遠しみやこ鳥 |
海晏寺の夏楓のもとに、日比かたり合し袖をわかち、金沢、鎌倉の古き跡覚束なしと六浦にせうようし、能見堂の庭に草うちしき、瀬戸の唐橋の見馴ぬさまより、島々浦々に佳景、古人の「うらむがごとし」といへるにかよひて、洞庭の屏風の画に彷彿たり。称名寺は金沢文庫の有りし処、四石八木など見尽しがたし。 朝比奈の切通しより雪の下に入る。鶴岡の御前はなゝめに由井の浜に通じ、左右の松原のみどりの陰いはむかたなし。源二位の法華堂には、蓮胤の「むなしき苔を払ふ秋風」とつらねしを、高時禅門の東勝寺にしては、子美が臥龍躍馬終黄土と賦せしを吟じて、小袋坂を上るに円覚・建長の古梵刹は朽かたぶき、苔なめらかに人の跡なし。桐が谷の光明寺、星月夜の井に旅痩の影をうつす。時しも汐風にあやめの幟のひるがえるも、昔しのばしく、 谷々は麦の埃や帋のぼり |
稲村が崎の真砂地を、腰越より江の島にいたる。波荒くうち寄て鳥居を洗ふ。窟の中いとくらう雫したゝり、蝙蝠とびかふて冷じ。爰の海上に富士を見るを無双の遠望なりと人の語りしも、けふは汐曇りに見えず、いとねたし。 日蓮上人の龍の口迄さがし、明れば藤沢道場の晨朝に結縁し、鴫立沢もなをざりに、小ゆるぎの磯[行]くほど雨降出てわびしけれど、やすらふべきにもあらねばとて箱根の山路をゆく。目のまへに立登る雲のたえ間に、伊豆の海見えわたる。早雲寺に祇法師のむかしの跡をとぶらひ、二子山や芦の浦辺なる、さいの川原には所々石をくみて、さびしう物がなし。念珠すりながら、 積石は誰なでし子の果なるぞ |
三島の祠、黄瀬川、六代御前のなき跡は、千本の松原にと、浮島が原を望ば、富士は峯より足もとまでさはりなく、かけものぼりつべし。富士川のはやきに目くるめきて、その夜は由井に磯枕しぬ。 此頃は頻に都の空のなつかしく、星に出て月に宿りしも、けふなむさしも聞えし所を夜をこめては浅間しと、日竿たけにして出たつ。薩タ(※「土」+「垂」)峠より田子の浦・清見潟・三保の松原まで、此年月襖に書、扇にうつせしをのみ見つるもまのあたり、かしらだるきまでに、心あるもなきも足をとゞむ。 洗らふたる富士や五月の雨上り と同行は云りけれど、予は中々によむことの葉はなかりけり。「富士のしら雪富士のしら雪」とくり返すのみ。「丸子の宿のとろゝ汁」とたはぶれられし所に昼休し、みじか夜の眠たさに宇津の山もうつゝともわかず、大井川の名に立るも鞍にしがみ付て、念なふ菊川の里にして、黄門宗行脚の「南陽県の」とつくられしも今のやうに、 夏菊やされば千代ともいわゝれず |
佐夜の中山にかの聖のむかし咄しもて行ほどに、一声もれしも、 是も又命なりけりほとゝぎす 池田の宿の寺に湯谷がしるし有と聞ながら、天の中川もやすやすと、引佐の細江やゝゆきて、舞坂にやどれば初稿更の鐘ひゞく。 明ぬに舟に乗らんと浜に出けるに、よべより爰に草ぶしせし順礼の、舟にむかひてなげきわぶる。例の舟子共の情なふうけがはねば、便なしとたすけ乗せてかたるを聞ば、「佐渡の国のもの也」と。さるべき縁にやと、かはゆし。浜名の橋の跡、いらこ崎、潮見坂の松のひまより七十五里の灘を見渡し、宮地・二村の山々、矢作の橋ふみならして急ぎしも、八橋の跡を無下にはと沢のほとりにおりゐて、 中食によひ処なり杜若 |
鳴海潟・夜琴の里・松風の里も横に、竹輿にたすけられて熱田に着ぬれど、「雨降れば舟なし」とて名護屋の城下に泊る夜は、五月五日なり。 旅籠屋の風呂もあやめの匂ひ哉 鳳皇(凰)山の霊地を礼し、津島の天王の浜より舟さし下し桑名に上れば、はや帰り着し心地して、関に内外の宮居をぬかづき、草津のちまたにしては、手を折て、さいつ比、北に行し事をかぞへ、ふたゝび義仲寺に入りて、「東海道の一筋も」と申されしも今よりはとしたり顔に、 松島の咄手向ん苔の花 つくづく思へば、いともはるけき五百余里、萍の身の流れ流れて今はた鳰の浮巣の庵にたどり着て、まづ都の音信など尋るも、また塵にまみるゝ始ならむかし。
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