俳 人
豊島久藏
由誓 芝田町六町目餅屋ノウラ 豊嶋久藏 由誓 一号坎窩 東都柳橋寓居 為誰庵 野の草に思ひくらへる躍かな 由誓 |
文化8年(1811年)10月4日、一茶は人形町で久藏に会う。 |
人形丁ニテ久藏ニ相見
『七番日記』(文化8年10月) |
四 晴 本郷小野寺向於源十郎家訪久藏
『七番日記』(文化11年11月) |
二月出 同日来 | |||||||||
正月が来た上にまた梅の花 | 一瓢 |
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三月五日出 同日来 | |||||||||
わか芝に今降をさへ残る雪 | 久藏 |
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文化13年(1816年)11月6日、古学庵仏兮没。由誓は友人幻窓湖中の『俳諧一葉集』編集を補佐した。 |
文化14年(1817年)7月4日、一茶は江戸から帰り、柏原に入る。 |
廿 旦雨 陰 申刻雨 妻赤川ニ入 以小玉団七出書 太キョウ 鶯笠 寿翁 陶里 一峨 久藏 車両 |
『七番日記』(文化14年7月) |
年代は不明だが、埼玉県の文殊寺で「永代奉額発句合」の評者であったようだ。 |
文政3年(1820年)7月、敬五亭隨和は芭蕉の句碑を建立。記念集『多賀の浦』(隨和編)刊。素英序。久臧跋。 文政3年(1820年)、『椎柴』(桂丸編)刊。豊島久藏跋。 文政4年(1821年)春、『四山藁』(成美著)刊。豊久蔵・米包徳・齊包昌・夏包寿編校。 嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「芭蕉翁奧の細道松島の文」の碑建立。 |
嘉永5年(1852年)10月、『東桜集』(一如庵遜阿)為誰庵由誓跋。 嘉永7年(1854年)8月、東御市の大日堂に俳額を奉納。撰者は江戸の豊島由誓、一具庵北松と戸倉の虎杖庵亀守。 |
はつ月ハ蕣ほどのひかりかな どこまでも蜻蛉あがるや駿河町 潮させ水鶏の胆をつぶす程 まんぢう(ゆう)のけぶりもかよへ花の雲 蚊の逃る程咲立や蓮の花 ひよろひよろと草うつりする清水哉 どこからか夜々は来てなく千鳥 見るうちに時雨て行や市の人 見るうちに散ゆく花となりにけり 雀等がうめも咲けり川ばたに 五月雨や文とりかはす家のうち 春の月さびしきは我ヶ不断哉 卯の花のとれを折ても散にけり 草ならでたはむれにくきつゝじ哉 鮓つけて出れは庭に忘艸 何所まても鶺鴒あかるや駿河町 けふの月家にあまりて草にさす 蝶ふえてしかもこまかし秋の空 水鳥の処も替ず明の春 昼中や馬糞にとまる夏の蝶 ひとふさの皆もさかぬや藤の花 火燵へといはるゝ老といつなりし 雉子の声物陰に寝て夢や見し 能なしの身にこたえけり鵙の声 柴垣やほかまでもなし初霞 |