此秋、名にしおふ更科の月ミん、それより武蔵野の露をも分けばやと思ひ立てる暁台を送る。其行先の信濃路にハ、我知れる千丈・友梅なるお(を)のこあり。武蔵に布袋庵の主ハ、殊に年来の交あれば、我が一言を伝へて立よらむにハ、仮のやどりをも惜むまじ。行くればよし此陰によりて、心の花のあるじとせよと、陽関の一句を筆して別るゝ衽(えり)にさしいれぬ。
漏らぬ宿お(を)しえ(へ)む月の旅ながら
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明和7年(1770年)3月16日、名古屋を立ち『奥の細道』の跡を辿る。『送別しをり萩』、『二編しをり萩』。仙台を訪れ、山田丈芝と出会う。
安永元年(1772年)12月、『秋の日』(暁台編)刊。也有序。
安永2年(1773年)春、丈芝は名古屋へ赴き暁台に俳諧を学ぶ。
安永3年(1774年)4月、暁台は丈芝を伴って上京。7日、夜半亭興行。
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夏四月七日、於夜半亭興行
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長安萬戸子規一聲
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ほとゝきす南さかりに鄙くもり
| 曉臺
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垣のあなたのみしか夜の河
| 蕪村
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草高きあづち平いらにならさせて
| 丈芝
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(※「土」+「朶」)
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人の履たる足駄かるなり
| 几董
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『宿の日記』(初稿) |
安永3年(1774年)9月、加藤暁台は義仲寺の幻住庵に滞在。蕪村来訪。
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洛の夜半主人、幻住庵のかり寐訪れし時
丸盆の椎にむかしの音聞む ときこえしに、かたみて月を松もとの山 とかい付侍る。
日頃おもひまうけし事ども、とひもしいらへもしつ。月は四更にかゝる。夜のかさねいとうすく、裾引かくし肩おしならべて夢境に入、叟がしわぶきに目ざめて
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暁の寐すがた寒し九月がや(※「巾」+「厨」)
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安永4年(1775年)3月、加藤暁台は『去来抄』(去来著)板行。暁台序、士朗跋。
安永4年(1775年)5月、『熱田三歌仙』(暁台編)自序。
安永4年(1775年)6月12日、暁台は出雲崎から佐渡へ渡る。29日、出雲崎に戻る。
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俳人で佐渡へ渡った紀行のあるのは暁台位のものであろう。出雲崎旦水の著「佐渡日記」に詳しい。安永四年六月十二日出雲崎から赤泊に渡って、渋手から沢根に渡り、それから相川に出で、金北山を経て夷に出ておる。真野御陵に参拝して「啼く蝉も」の句をよんだが、根本寺などには参らぬようであった。
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安永5年(1776年)2月、暁台は上京。蕪村を訪ね、伏見・嵯峨に遊ぶ。
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暁臺が伏水・嵯峩に遊べるに伴ひて
夜桃林を出てあかつき嵯峩の櫻人
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天明元年(1781年)、加藤暁台は江戸に出て、周辺を遊歴。
天明2年(1782年)、隅田川西岸再可子の楼上で新年を迎える。
天明2年(1782年)、『風羅念仏』(房総の巻)刊。
天明2年(1782年)9月、加藤暁台は再度白川の関を越えて奥州に入る。
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老情旅にせまりて再び白川の関をこゆる。
見つゝゆけば茄子腐れて往昔(むかし)道
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天明3年(1783年)3月2日、加藤暁台は上京。湖南幻住庵、洛東安養寺端寮、金福寺芭蕉庵の3ケ所で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。『風羅念仏』(法会の巻)刊。
天明3年(1783年)秋、加藤暁台は信濃から甲斐に赴き、可都里を訪ねている。
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信濃の道くだり、甲斐の国に歩みを引ちがへて行ほど、藤田の可都里は年頃文してしれる好人なれば尋ぬ。其夜ごろにもあれば、月を見せばやなどわりなくとゞめられ、望の夜もこゝに遊ぶ。士峯の北面まぢかくひたひにかゝるやうなり。
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高根はれて裏行月のひかり哉
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天明3年(1783年)冬、加藤暁台は上田に来遊、大輪寺で歌仙を巻く。
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天明6年(1786年)8月1日、母を喪う。
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亡母野送り
霧煙今や骨ならむ肉ならむ
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天明6年(1786年)9月9日、大津に遊ぶ。
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菊の九日遊大津旧都
けふの菊なき世の都めぐり哉
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天明7年(1787年)、栗田樗堂は京都・大和・尾張を巡る。『爪しるし』暮雨奄暁台序。
『暮雨句集』(曰人稿)。「暁台先生発句聞書 寛政三年七月八日曰人写」とある。
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寛政4年(1792年)1月21日、61歳で没。
寛政5年(1793年)、一周忌の追悼集『落梅花』(臥央編)。
寛政11年(1799年)、『幽蘭集』(暁台編)。臥央校。
亨和元年(1801年)8月、暁台の句碑を建立。
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人の親の焼野のきゝすうちにけり