蕉 門
向井去来
俗名向井平次郎。蕉門十哲の一人。可南は内縁の妻。魯町・牡年は去来の実弟。 |
去來者肥前之産也。後隨レ兄居二于洛陽一。向井氏也。中華蕉門之高弟也。號二落柿舎一。隨レ師選レ師選二猿簑一。後病死。年五十三。 |
翁常に興ぜられて云く、去来は西三十三箇国、杉風は東三十三箇国の俳諧奉行なりと。 |
正保4年(1647年)、儒学者向井元升は東上町に孔子廟(聖堂)と学舎を設立。 慶安4年(1651年)、向井元升の次男として長崎後興善町に生まれる。 |
万治元年(1658年)11月21日、元升は妻子を連れて上洛。 |
又、我八歳にして初て二百里軽(経)し、猶夢のごとく、十六才より今年四十八、歳として旅寐せずと云事なく、 |
寛文6年(1666年)、福岡の久米升顕のところに身を寄せる。 延宝3年(1675年)頃京に戻る。 貞亨3年(1686年)閏3月10日、芭蕉の去来宛書簡がある。 |
当秋冬晩夏之内上京、さが野の御草庵に而親話尽し可レ申とたのもしく存罷有候。さがへ、キ丈御方へ参候事は其元に而もさたなきがよく候。 |
去来は既に嵯峨野の草庵を構えていたことが分かる。三井秋風の隠宅を譲り受けたと伝えられる。 |
嵯峨に小屋作りて 折ふしの休息仕候なれば 月のこよひ我里人の藁うたん |
貞亨3年(1686年)8月、去来は妹千子(ちね)を伴い伊勢詣の旅をする。『伊勢紀行』。芭蕉はその跋文に添えて句を贈った。 |
いせにまうでける時 |
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亡人 |
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葉月(はちぐわつ)や矢橋に渡る人とめん | 千子 |
いづれの時の秋にや、去来・千子が伊勢まうでの比、道の記かきて深川に送りけるに、奥書の褒美ありて、 |
西東あはれさおなじ秋の風 | 翁 |
貞亨3年(1686年)、去来は江戸で越年。 |
続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに、首尾 |
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年ありて、此集の人足にくはゝり侍る |
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鴨啼や弓矢を捨て十余年 | 去来 |
刄バほそらぬ霜の小刀 | 嵐雪 |
はらはらと栗やく柴の円居して | 其角 |
貞享4年(1687年)4月8日、其角の母没す。去来は五七の日追善会で追悼の句を詠んでいる。 |
蚊遣にはなさで香たく悔み哉 |
貞亨5年(1688年)5月15日、去来の妹千子没。 |
辞世 |
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去来妹 |
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もえやすく又消やすき螢哉 | 千子 |
いもうとの追善に |
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手のうへにかなしく消る螢かな | 去来 |
無き人の小袖も今や土用干 | 芭蕉 |
はなにあかぬ憂世男の憎き哉 |
元禄元年(1688年)10月20日、其角は加生と共に去来を訪ね、嵯峨を吟遊した。 |
十月廿日 |
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嵯峨遊吟 |
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さが山やみやこは酒の夷講 | 其角 |
ひろさわ |
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池のつら雲の氷るやあたご山 | 去来 |
のゝみや |
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木がらしに入相の鐘をすゞしめよ | 加生 |
元禄2年(1689年)、田上尼と熊野三山へ参詣。 元禄2年(1689年)5月、田上尼を送って長崎に赴き、秋に簑田卯七に送られて帰京。 |
つくしよりかへりけるに、ひみといふ山 |
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にて卯七に別て |
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君がてもまじる成べしはな薄 | 去来 |
元禄3年(1690年)4月、『いつを昔』(其角編)。去来序。湖春跋。 元禄3年(1690年)6月、凡兆は芭蕉と去来を迎えて三吟歌仙。 |
市中は物のにほひや夏の月 | 凡兆 |
あつしあつしと門々の声 | 芭蕉 |
二番草取りも果さず穂に出て | 去来 |
元禄3年(1690年)12月、芭蕉は凡兆・去来・乙州・史邦ら門人を伴ない上御霊神社に参詣して「年忘歌仙」を奉納した。 |
元禄4年(1691年)4月18日から5月4日まで芭蕉が嵯峨にあった去来の落柿舎に滞在。『嵯峨日記』 |
元禄4年(1691年)7月3日、『猿蓑』(去来・凡兆共編)刊。 元禄5年(1692年)夏、車庸・之道は勢多・石山の螢見に出向く。去来も曲水に誘われて螢見に行く。 |
曲水子にいざなはれて、勢田の螢見にまかり けるに、夕のほどながれにつゞきて下りぬる とかたれば、猶舟をさし下して 螢火や黒津の梢児が嶋 |
元禄6年(1693年)2月2日、呂丸は京都で客死。去来は呂丸追悼の句を詠んでいる。 |
呂丸追悼 三句 |
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雲雀なく声のとゞかぬ名ごり哉 | 会覚 |
ふみきやす雪も名残や野べの供 | 去来 |
野を(お)くりや膝がくつきて朧月 | 史邦 |
元禄6年(1693年)、丈草は故郷の犬山に帰る。去来は野水の案内で名古屋から犬山を訪れている。 元禄6年(1693年)6月、長崎の卯七は上京。落柿舎に去来を訪ねる。丈草と共に三吟歌仙を巻く。 |
元禄のはじめ都にのぼり、落柿舎を扣 |
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ひて |
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京入や鳥羽の田植の帰る中 | 卯七 |
うれしとつゝむ初茄子十ヲ | 去来 |
元禄6年(1693年)秋、去来は難波に洒堂を訪ねる。 元禄6年(1693年)秋、素牛は野明と共に嵯峨の落柿舎を訪れた。 元禄7年(1694年)春、魯町は長崎に帰る。 |
朧月一足づゝもわかれかな |
弟魯町が故郷へかへるを送りて 手をはなつ中に落けりおぼろ月 |
元禄7年(1694年)閏5月22日、京都嵯峨の落柿舎で句会。芭蕉は6月14日まで落柿舎に滞在。 |
閏五月二十二日 |
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落柿舎乳吟 |
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柳小折片荷は涼し初真瓜 | 芭蕉 |
間引捨たる道中の稗 | 洒堂 |
村雀里より岡に出ありきて | 去来 |
塀かけ渡す手前石がき | 支考 |
月残る河水ふくむ舩の端 | 丈艸 |
小鰯かれて砂に照り付 | 素牛 |
『市の庵』
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元禄7年(1694年)閏5月、浪化は去来の紹介で落柿舎の芭蕉に会う。 元禄7年(1694年)6月下旬から8月30日の間、真如堂で信濃・善光寺如来の出開帳が行われた。去来は法要に参列している。 |
洛東の眞如堂にして、善光寺如来開帳の時 凉しくも野山にみつる念仏哉 |
元禄7年(1694年)10月、芭蕉は難波で病に臥す。去来は伏見から舟で駆けつけた。 |
芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときゝて、伏見より夜舟さし下す。 |
舟にねて荷物の間や冬ごもり |
芭蕉翁の七日七日もうつり行くあはれさ、猶無 |
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名庵に偶居してこゝちさへすぐれず、去来がも |
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とへ申つかはしける。
朝霜や茶湯(タウ)の後のくすり鍋 | 丈艸 |
かへし |
朝霜や人参つんで墓まい(ゐ)り | 去来 |
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岡崎村に住侍りけるころ |
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うしなはで落穂をたくや大師講 | 可南 |
元禄8年(1695年)、去来は義仲寺へ詣でる。 |
翁の身まかりたまひしあくる年の春、 義仲寺へ詣て 石塔もはや苔づくや春の雨 |
元禄8年(1695年)3月上旬、去来の後見で『ありそ海・となみ山』成立。 元禄8年(1695年)、田上尼の西国三十三箇所観音霊場巡礼の旅に同行。 |
熊野に詣ける比、八鬼尾谷といふ処にふりこ |
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められて |
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逗留のまどに落るや栗の花 | 去来 |
元禄8年(1695年)、各務支考は芭蕉の足跡を巡遊。『笈日記』に「右一集はことし元禄乙亥の夏、四月十二日木曾塚の旧草におゐ(い)て、記焉。」とある。 元禄8年(1695年)4月、支考は京都桃花坊の去来亭を訪れ、風国と共に歌仙。 |
哥 仙 |
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去来 |
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猫の子の巾着なぶる凉みかな |
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塀のかはりにたつる若竹 | 支考 |
折角とちか道来ればふみ込て | 風国 |
元禄8年(1695年)9月、芭蕉の兄半左衛門から素龍清書『奥の細道』を譲り受ける。 |
その外、奥羽の風流は奥の細道にみづからかきて、洛の去来に残し侍り、潜淵庵が『継尾集』にもこもごも出し侍るかし。 |
元禄9年(1696年)、十丈は去来を訪ねる。『射水川』 元禄9年(1696年)10月12日、芭蕉の三回忌に惟然は義仲寺を訪れている。 |
三回忌 |
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去來 |
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夢うつゝ三度は袖のしくれ哉 |
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冬の螽(いなご)の這ひちからなき | 游刀 |
山陰の痩たる馬に旅寐して | 北枝 |
おもひの外に天氣也けり | 正秀 |
元禄11年(1698年)6月、長崎へ旅に出る。途中大坂で園女を訪れる。 |
つくしへまかりけるとき伏見の舟中より都に侍 る子とものかたを帰りミて 夕立の雲もかゝらす留主の空 園女にて先師の事ども申出ける 序に 秋はまづ目にたつ菊の莟かな |
7月1日、難波津に船待。7月7日、黒崎の沙明亭に泊まる。 |
七夕は黒崎、沙明にて うちつけに星待つ顔や浦の宿 |
長崎に帰郷。7月11日、西国旅行中の支考に逢う。 |
此日洛の去來きたる。人々おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會しておもひがけぬ事のいとめづらしければ、 萩咲て便あたらしみやこ人 |
元禄11年(1698年)、長崎滞在中の去来は田上尼の千歳亭を訪れた。 |
長崎より田上山に旅ね移しける比、卯七・素 |
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行に訪れて、共三句 |
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名月やたかみにせまる旅こゝろ | 去来 |
名月の麓を呼ぶや茂木肴 | 卯七 |
休み日といふ(う)て山家も月見哉 | 素行 |
元禄12年(1699年)3月、『旅寝論』自序。 元禄12年(1699年)、博多に滞在。箱崎の俳人哺川に芭蕉の辞世の句を贈る。帰途、厳島神社に詣でる。 |
いつくしまにて 滿汐の岩ほに立や鹿の声 長月末つくしよりのほりける道あきのひろしまを 通けるに人々とゝめられけれとも故郷に心いそき せられてのかれ出るあかつき一夜の宿にかきとゝ め侍る けふ翌となりていそかしわたり鳥 |
元禄14年(1701年)7月3日、風国没。 |
悼風國 朝夕にかたらふものを袖の露 |
元禄14年(1701年)7月、野坡は長崎を去り江戸に帰る。途上、去来を訪ねる。 元禄15年(1702年)2月20日、浪化は支考の案内で去来を訪ねる。 元禄15年(1702年)10月、去来は仏幻庵に丈草を訪ねる。 |
去々年の~無月、一夜の閑を盗み草庵に宿りて、寒き夜やおもひつくれば山の上、と申てこよひの芳話に、よろを忘れけりと、其喜びも斜ならず。更け行くまゝに、雷鳴地に響き、吹く風扉を放ちければ、虚室欲夸閑是寶、滿山雷雨震寒更と興じ出でられ、笑ひ明して別れぬ。
「丈艸カ誄」
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元禄16年(1703年)10月9日、浪化は33歳で没。 |
悼浪化君 その時や空に花ふる野邊の雪 |
元禄17年(1704年)2月24日、丈草没。 |
宝永元年(1704年)、『枯野塚集』(哺川撰)。採荼庵杉風序。嵯峨野去来跋。 宝永元年(1704年)、『渡鳥集』(卯七・去来編)刊。 |
宝永7年(1710年)、去来七回忌に長崎影照院の住職素民の手で追善集が編まれているはずであるが、今日伝わらない。 享保元年(1716年)、去来十三回忌追善集『菊の杖』(不雄編)。漁仙・宇鹿序。 |
素龍清書本『奥の細道』は去来の死後敦賀の俳人白崎琴路の許に移り、現在は敦賀の西村家に伝えられているそうだ。重要文化財である。 |
明和8年(1771年)9月10日、去来の六十八回忌が嵯峨野の落柿舎において重厚主催で営まれる。『去来忌』(重厚編) |
安永3年(1774年)、『去來發句集』(蝶夢編)刊。 安永4年(1775年)3月、加藤暁台は『去来抄』(去来著)を板行。 天明4年(1784年)3月、長崎の俳人達が芒塚を建立。 |
寛政11年(1799年)2月、岩鼻の断崖下に去来の句碑を建立。小簑菴支兀筆。 |
梅一りん一輪ほどのあたたかさ | 嵐雪 |
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岩端やここにもひとり月の客 | 去来 |
長野県佐久市の豊川稲荷神社に芭蕉と刻まれた句碑があるが、去来の句である。 |
柿主や梢は近きあらし山 |
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応々と言へど叩くや雪の門 |
京都市伏見区の御香宮神社の芭蕉の句碑に去来の句が刻まれている。 |