曲翠 始曲水、俗稱菅沼外記範義、江州膳所本田家臣、馬指堂、其妻破鏡尼、三千五百石側用人、享保四年巳九月廿日歿。曾我治右衛門ト云奸侫ノモノ、國家虐政ス、曲翠數條書立ヲ認、治右衛門ヲ己ガ家ニ呼ヨセ、ツメ腹ヲ切ラセ己モ自害ス、兩家斷絶ス、今ニ至テ至忠アラハレ、家ヲ取立起サント本田家探ニ跡ナシトゾ。(原文、此ノ一項ヲ、「コレハいせや孫右衛門正秀が事ナリ」、トアレド曰人ノ誤記ナラン。)
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元禄元年(1688年)10月2日、其角は曲翠と共に膳所水楼に遊んだ。
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湖上吟 十月二日膳所、水楼にて
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帆かけぶねあれやかた田の冬げしき
| 其角
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| ゼゝ
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此月の時雨を見せよにほの海
| 曲水
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元禄3年(1690年)3月中・下旬、芭蕉は近江の門人珎碩、曲水と歌仙を巻いている。
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木のもとに汁も膾も桜かな
| 翁
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西日のどかによき天気なり
| 珎碩
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旅人の虱かき行春暮て
| 曲水
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| 『ひさご』 |
曲翠は義仲寺で生活していた芭蕉の隠棲地として、伯父幻住老人定知(さだとも)の旧庵に手を加えて幻住庵を提供した。
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幻住庵

4月6日から7月23日まで芭蕉は幻住庵に滞在した。
元禄4年(1691年)、曲水は芭蕉庵の跡を訪ねて宗波に逢った。
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芭蕉庵のふるきを訪
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菫草小鍋洗しあとやこれ
| 曲水
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其内曲水状ニ、予ガ住捨し芭蕉庵の旧き跡尋て、宗波に逢由。
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元禄4年(1691年)11月13日付曲水宛書簡の冒頭に「都出て神も旅寝の日数哉」の句がある。
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書簡は蕉門宇古から岡崎の俳人三秀亭李喬に伝わった。
元禄5年(1692年)夏、車庸・之道は勢多・石山の螢見に出向き、膳所の人々と歌仙。
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即 興
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| 珍碩
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螢見や茶屋の旅籠の泊客
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湯殿の下駄に散レる卯の花
| 車庸
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そよそよと風にはちくの皮干て
| 正秀
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笠一繩手先へゆく鑓
| 昌房
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百舌鳥ひくやおこしかけたる岨の月
| 曲水
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露のよどみにむつはねてとぶ
| 探志
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椀家具も人の跡かる舶の秋
| 之道
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元禄6年(1693年)11月8日付曲翠宛書簡に芭蕉の句がある。
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此ほどの御なつかしさ筆端難レ尽事共に而、壁の影法師・練塀の水仙、申さば千年を過たるに同じかるべく候。当夏暑気つよく、諸縁音信を断、初秋より閉関、二郎兵へは小料理に慰罷有候。夏中は筆をもとらず、書にむかはず、畫も打捨寝くらしたる計に御座候。頃日漸寒に至り候而、少し云捨など申ちらし候。
鞍つぼに小坊主乗ルや大根挽キ
振売の雁哀也夷講
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元禄7年(1694年)1月29日付曲水宛書簡に「蓬莱にきかばや伊勢の初便」の句ある。
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元禄7年(1694年)9月25日付曲翠宛書簡に「此道を」の句ある。
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宝永元年(1704年)9月10日、去来没。
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悼去來
いきいきと枕に殘る菊の花
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享保2年(1717年)7月20日、不正を働く家老曽我権太夫を槍で殺害し、自らも切腹した。
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曲水の句
梅の花義経なりし姿かな
よひ月や螢かたつく小松原
談合の温飩(うどん)にしまる後の月
早稲の香や田中の庵の人出入
思ふかほおもひ出されすや天の河
若楓茶色になるも一さかり
きつぱりと寐てとる蚊帳の一重哉
旅店
荷筵を縁にひろげむけふの月
念入て冬からつほむ椿かな
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