俳 人

小林葛古
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 本名は勝右衛門正美。宮本虎杖に師事。虎嶺庵梅喬と号した。後、倉田葛三に師事。水篶屋。

葛古 一号水篶屋 信州小諸在八満村 小林勝右衛門

 払うてる雪にせはまる戸口かな 葛古


 寛政5年(1793年)11月29日、八満の小林五郎一の長男として生まれる。

 文化12年(1815年)、葛三に随行し、鴫立庵で越年。葛古と改号

 文化13年(1816年)1月9日、信州へ帰る。

しなぬ人葛古、草庵の年越客なりけり、正月九日古郷のかたへまかるとて、雉啄か馬入川の辺りまて送る。

うらしろをかさに縫ふへきよしもかな


 文政元年(1818年)6月12日、葛三は57歳で没。

 文政6年(1823年)、葛三七回忌に葛古は『筑紫みやげ』を上梓。雉啄序。雨塘跋。

 文政7年(1824年)4月26日、護物は江戸を旅立ち、軽井沢を経て佐久の葛古邸まで旅をする。『燧袋』

 天保3年(1832年)、小林葛古は長楽寺を訪れ、宗祇・芭蕉・白雄の句碑を見ているようである。

 天保3年(1832年)、小林葛古は善光寺から直江津に向かう途中、柏原で一茶の句碑を見ている。



松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな

 ○牟礼より柏原二里。柏原より六丁手前古間宿なり。両宿隔番所のよし。柏原入口左の方一茶の碑あり。

   松影に寝てくふ六十余州かな   一茶翁

『五智まうで』

 天保11年(1840年)5月23日、田川鳳郎は小林葛古を訪ねている。

廿三日ハ葛古を訪ふ。兼てしも契りおきし事のあれば又なく歓び、何くれといとねもごろにす。将、家号を水篶屋と呼ぶ。是に辞有む事を需む。不取敢しるし予ふ。


 天保14年(1843年)10月12日、芭蕉百五十回忌に御代田町塩野の真楽寺に芭蕉の句碑を建立。



むすふよりはや齒にひゝく清水哉

 安政2年(1855年)10月27日、指月三十六回忌と芭蕉忌を修した記念俳額が東御市の長久寺にある。

 催主は時の住職二代目指月。選者は上田の入山、小諸八満の小林葛古、田中の秋元菊翁。菊翁書。

明治13年(1880年)6月15日、88歳で没。

陽炎や身はあら土を棲かな

小諸市のチェリーパークラインに句碑がある。

小林葛古の句碑


秋たつや呼べばうなづく人の問

葛古の句

黄鳥に見せうか庭のかくれ蓑


ならの葉やいやといはれぬ秋の声


秋の夜やせめてともしのある持佛


何事もなく降出して秋の雨


寐ぬ内にはや木がくれぬ盆の月


秋風や逢ふを別の行脚同士(どし)


四五軒へ配る程あるわかな哉


洗ふにも人手にかけぬすゞりかな


花に只手を合はせたるはかりなり


初秋の雨漏受をはづれけり


若水や手早にくむもあとおもひ


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