俳 人

久米素行


長崎の人。久米調内。去来の門人。長崎為替取次役人。

 元禄11年(1698年)7月10日、各務支考は久米素行に案内されて清水寺に詣でている。

久米のなにかし素行にいさなはれて此清水寺に詣けるに今日は二万五千日の功徳とかや。殊に女こゝろのたのみをける日なるへし。此津の遊女ともの人も見人にも見られむとよそほひ立たるに、往來のをひ風に心ときめきせられて、花すゝきのなひき合たる野邊は男山もあたにたてりと見ゆらんかし。


  同年7月17日、長崎を離れる前夜に支考は長崎の人々と諏訪神社を参詣。

明日はわかれむといふ。今宵人々につれたちて諏訪の神にまうつ。此みやしろは山の翠微におはして、石欄三段にして百歩はかり。宵闇の月もかけほのわたりて宮前の吟望いふはかりなし。

一は闇二は月かけの華表かな
   支考

山の端を替て月見ん諏訪の馬場
   卯七

山の端を門にうつすや諏訪の月
   素行

木曾ならは蕎麥切ころやすわの月
   雲鈴

たふとさを京てかたるもすわの月
   去來


 元禄12年(1699年)、芭蕉の七回忌に野坡の撰文で長崎一ノ瀬街道に「時雨塚」を建立。



芭蕉翁之塔

   長崎に先師の碑を建て、時雨塚と名づく。
   今歳神無月十二日人々と詣て、 共四句

拝み処(ど)にのぼる小坂の時雨哉
 卯七

樫の木にたよる山路の時雨哉
 牡年

踏分る杖のあまりのしぐれかな
 野坡

こゝはまた汐のふる時雨哉
 素行


宝永元年(1704年)9月10日、去来没。

享保元年(1716年)、去来十三回忌。

今年は落柿舎の曉雲の十又三秋をわたりて親しきのかきり結草の友とちをのをの旧因を懐く夫か中に瓜堤軒のぬし追悼の一巻をおもひよせ申されける心わりなくもそゝろむつましく魯町・卯七・牡年とともに句を申て奠るにそのかみ此先生予にいへらく嵯峨のゝ別業に賦をなして自柿主の去來と唱るなれは生前の号をまたやまきれ呼れんも物めかしけなから此後は大井のさとの睡壁民ともかゝまほしと雑談せられける事とも思ひ出し侍れは

素行

柿の名に經るや壁のきりきりす


享保17年(1732年)、没。

素行の句

楠の香の柱も高しはるの雨


粟ちきる空は櫁柑の曇かな


山風を啼こたへたる雲雀哉


荒海の秋もたちけり海月の穂


梧の葉や秋をまつ夜のうらおもて


秋風や浪をしのぎて雲に鳥


山の端をちから顔なり春の月


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