俳 人
上矢敲氷
山梨郡川田村の人。江戸に出て小宮山門瑟の門人となり、平蕪庵鳥我と称した。 |
明和4年(1767年)5月7日、上矢敲氷の日記には次のように記されているそうである。 |
さつき七日は母必のぬし故郷の十八楼に祖翁の頭陀をおろし給ひける日なりとてその旧雅をわすれさるけふの会筵にまかりて 此あたりゆかしき音や五月闇 |
母必は鴎歩の次男あるいは孫、半峯亭。明和初年ごろ甲斐に入り、天明5年(1785年)、没。 |
明和7年(1770年)、敲氷と改め、平橋庵を結ぶ。 明和9年(1772年)7月26日、上矢敲氷は甲斐を立ち美濃関へ行脚。『祖餞』。『鶉日記』。 安永4年(1775年)10月、如雪庵尺五は「月影塚」を建立。敲氷は記念集『月影冢の集』に句を寄せている。 安永10年(1781年)1月18日、敲氷は葛飾の庵を出て埼玉の鴻巣・忍を中心に遊歴。『埼玉紀行』。 天明4年(1784年)4月8日、敲氷は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。 |
四月八日 雨天 甲州誹人敲氷子、江戸椿年子、右両人翁笈被致一見度由にて、三州舞木其雄子より添状来る。
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
おめつちに独歩して世を旅に終り給ひし粗(ママ)の笈を拝して |
松嶋の散松葉あり笈の底 | 甲府平橋庵 | 敲氷 |
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笈も文もむかしの風の薫り哉 | 椿年 |
『蕉翁笈拝見録』 |
天明8年(1788年)3月16日、蝶夢は江戸へ下る途中で敲氷を訪ね、20日まで滞在。 |
川田、敲氷(を)田中へ訪ひ、石森の社の寄(奇)石重なれるもめづらしく、日蓮上人、鵜飼済度ありし鵜飼寺も過て、小原、落葉庵を訪ふ。 |
寛政5年(1793年)、『とをかはづ』刊。自序。 寛政6年(1794年)11月、『猿橋小集』(枕蛙窟運水編)刊。平橋庵敲氷序。 |
麦秋や日は暮兼て鳩の声 門前の姥も聞けり時鳥 芦の芽をふみわけて啼蛙かな 高裾に市女連たつしぐれ哉 是ほどは何なした日ぞ古暦 庵木には倦ともあかぬ柳哉 鶯の細脛つよし雪の中 影かゞむ我身うとましけふの月 いつの間に梅となりしぞ軒の雪 |