俳 人
高井几董
寛保元年(1741年) 、高井几圭の次男として生まれる。 明和7年(1770年)、蕪村に入門。 安永2年(1773年)、『あけ烏』(几菫編)刊。 安永3年(1774年)3月23日、蕪村・樗良・几董の歌仙。 |
三月廿三日即興 |
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菜の花や月は東に日は西に | 蕪村 |
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山もと遠く鷺霞み行 | 樗良 |
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渉し舟酒價(テ)貧しく春暮て | 几董 |
『宿の日記』(初稿) |
安永3年(1774年)4月、加藤暁台は丈芝を伴って上京。7日、夜半亭興行。 |
夏四月七日、於夜半亭興行 |
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長安萬戸子規一聲 |
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ほとゝきす南さかりに鄙くもり | 曉臺 |
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垣のあなたのみしか夜の河 | 蕪村 |
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草高きあづち平いらにならさせて | 丈芝 |
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(※「土」+「朶」) |
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人の履たる足駄かるなり | 几董 |
『宿の日記』(初稿) |
安永5年(1776年)、『続明烏』(几董編)。 |
安永6年(1777年)4月、蕪村は大魯・几菫等と布引の滝に行って吟行。 |
大魯・几菫などゝ布引滝見にまかりてかへ さ、途中吟 舂(うすづく)や穂麦が中の水車 |
安永7年(1778年)、蕪村と大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に旅に出る。 天明2年(1782年)10月、『わすれ花』(松化編)几董跋。 天明3年(1783年)12月25日、蕪村は68歳で没。 天明4年(1784年)12月、『蕪村句集』(几菫編)。雪中庵蓼太序。 天明5年(1785年)、几董は江戸に出て夜半亭を継承。同年、京に帰って『続一夜松前集』(蓼太序)を刊行。 天明6年(1786年)、『続一夜松後集』上梓。 天明8年(1788年)、几董は遊行寺の芭蕉忌に詣でた。 |
浪華にありて、遊行寺のはせを忌に 詣 法の燈や吹井の鶴も時雨けり |
寛政元年(1789年)、自選発句集『井華集』刊。 |
几董が伊丹といふ所にてにはかになくなり侍りしよし、はや便にいひこしける。風雅にかゝりづらふ人の「道路に死なん是天の命也」と、ばせを翁も書のこし申されける事などおもひなぐさめて |
旅笠をつひのやどりやかれ尾花 |
うぐひすの卯の時あめに高ね哉 隨身の落馬興ある雪見哉 新月にそばうツ艸の庵かな 新月にそばうつ艸のいほりかな 冬川にむさきもの啄む烏かな うぐひすの脛にかゝるやかれかづら ふし見の夜急に更たり時鳥 比良の雪大津の柳かすみけり かげろふや酒にぬれたる舞扇 朝ごとの法や旅寢の一大事 舩慕ふ淀野の犬や枯尾はな 彳(たたづむ)はなを(ほ)ふる雪の夜道哉 山鳥のさは(わ)ぐは鹿のわたる哉 |