俳 人

和田希因
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 加賀金沢で酒造業を営む。通称は綿屋彦右衛門。中川乙由に学ぶ。別号暮柳舎。

 延享2年(1745年)、建部凉袋は希因を訪れている。

 加賀の国にいたれば、さのみにもあらず、むらぎへのけしきは、よく出羽の春にも似てん。かくて金城にやどりして、暮柳舎をとひつゝ、百川文こしたれば出すに、希因喜びて、「さらば先叢林は大乗寺に過べからず。一夏はまことの仏弟子と成りて、僧行をも見おかば、長き風雅の物がたりならん。文月に到りて、送行(ソウアン)の日はかならず我暮柳舎にきたるべし」と約して先大乗寺の山にかくれぬ。

「紀行越の雪間」

 寛延2年(1749年)6月18日、幾暁は金沢に入り希因を訪ねる。俳諧百合野集』(幾暁編)希因序。

   金城  みな月十八日に入る。

   暮柳舎即興

人のよる清水がもとの硯かな
   幾暁

   此日幾暁法師をむかへて

待得たり団扇の顔にあたるまで
   暮柳

 問るゝ峯を雲に指さす
   幾暁


 寛延3年(1750年)6月12日、麦浪は小松を出て松任の千代女を訪ねた。

水無月十二日は小松を出て松任に至る。千代女を訪ふに其日は他にあり、机上の硯をたづねて

夕顔やもの読捨た留守の窓
   麦浪

麦浪の旅館を訪ねて

雲の峰見上げて近ふなりにけり
   千代女

『夏の白根』

寛延3年(1750年)7月11日、51歳で没。

希因の句

鶯や雪折も茶の下にきへ(え)


真直な道あらはれて枯野哉

『文塚』

餅花の咲にもさぞな十万家


鐘ひとつ撞てはかゝむしくれ哉


名月や空にはきえて鷺の影


柴船の立枝も春や朝霞


菊の香のものにつく日や露時雨


分入れハ人の背戸なり山さくら


   人 日

妹がりの川辺出直す若葉哉


波謄てひく時松のしくれ哉


分入れは人の背戸なりやま桜


ひとりにも船出すころや川ちとり


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