俳 人
塩路沂風
安永4年(1775年)10月12日、高野山に芭蕉の句碑を建立。池大雅筆。碑陰に三世雪中庵蓼太の「雉子塚の銘」が刻まれている。 |
安永7年(1778年)、義仲寺に入り、第六世無名庵主となる。 安永8年(1779年)2月21日、蝶夢は沂風を伴い京を発して出雲に旅立ち、4月5日、須磨に帰り着く。『雲集紀行』 |
安永10年(1781年)4月2日、天明に改元。 天明元年(1781年)9月11日、沂風と重厚は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。 |
九月十一日 曇 粟津義仲寺沂風、嵯峨落柿舎重厚、右両子翁笈拜見来。見せ遣。
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
天明3年(1783年)3月5日、沂風は千代倉家を訪れている。 |
三月五日 晴天 粟津義仲寺沂風子御出。 |
永き日や語も床し翁寺 | 学海 |
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笠かたむける花の下かげ | 沂風 |
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
天明4年(1784年)10月12日、尺艾は義仲寺時雨会に参列した後、沂風と京の五升庵を訪ねた。 天明6年(1786年)、沂風は祥然と筑前を行脚。 天明7年(1787年)8月、『宰府日記』(沂風編)祥然序。 寛政2年(1790年)、蝶夢の援助で粟津文庫を創設。 寛政3年(1791年)、杵築の俳人荒巻菊男は法西寺に「時雨塚」を建立。5月12日、塚供養の俳筵が催された。 |
蕉翁の短冊を法西寺の境内にうづめて時雨塚と名づく。その供養の日にまうでて |
啼そむる蝉を此日の時雨哉 | 得往 |
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石いや高く夏草のかげ | 菊男 |
『時雨塚百回忌』 |
寛政3年(1791年)、沂風は筑紫に旅をしたようである。 |
築(筑)紫に旅寝して |
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行脚 |
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時雨せよ檜垣か家の集よまむ | 沂風 |
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同し旅行に |
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背負ふものみなうち着たり初しくれ | 一萍 |
芋生し土うつ高し冬かまへ 時雨会や道々ぬれし墨の袖 塚にまつしくれて嬉し苔の色 殊更に時雨を軒にきく夜哉 帰らむと月にそむけバ影五尺 |
寒苦鳥といふものゝ翌日は巣作らんと啼けるも明れば忘るゝとや、人もその事かの事心にはかりて月日ぞうつりゆく |
是ほどは何なした日ぞ古暦 かへらんと月にそむけば影五尺 葉桜に鵯こもる深山かな 有明にせまりて白し寒の梅 あつき日や袈裟ぬふ尼の目の疎き 柳より空ふく風やいかのぼり うくひすの足にかけけり蔦かつら 三井寺の兒髪そりて後の月 花守の宿も桜の木の間哉 心ある海人の施物やのり二升 |