俳 人
大里桂丸
銚子小浜の素封家宮内太郎左衛門の実子で、行方屋に養子に入り6代目を襲名。 |
文化13年(1816年)、桂丸は「成美始書句帖」を浄国寺に納めている。 |
文化14年(1817年)5月28日、小林一茶は桂丸を訪れ、翌29日に桂丸の案内で外川までやってきた。 |
九 晴 外川昔此所三千軒アリシ[ト]云 今礎所々有
『七番日記』(文化14年5月) |
一 晴 | 南風 辺田浄国寺登望西台 |
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桂丸 李峰同 |
『七番日記』(文化14年6月) |
文政3年(1820年)、『椎柴』(桂丸編)刊。豊島久藏跋。 |
文政8年(1825年)7月15日、渡辺崋山は銚子を訪れ、大里桂丸に会っている。 |
こはこの里に名おへる一場のすき人にて名を桂麿といふ。予が海上(ウナカミ)にたゞよひ游(べ)るを、あはれとおもひそめて、とひいたれるなりき。
『刀祢河游記』 |
戸川浦 姫百合の蜘蛛にまかるる暑さかな からからと小慨よするや春の海
『七番日記』
衾きれは夢はうき世の裏を行 網干の集る門の清水哉 わたくしに手も添られず牡丹散 ふすま着れは夢は浮世の裏を行 盆過やきのふの日さへ遠くなる 夕鰺の鰭に晴けり富士の山 道野辺の草のくみあふ皐月哉 |