俳 人
倉田葛三
宝暦12年(1762年)、松代の商家ねずみやに出生。 天明6年(1786年)ごろ、宮本虎杖に入門。虎杖の紹介で加舎白雄の主筆となる。 天明7年(1787年)春、虫歌観音堂に俳額を奉納。宮本虎杖選。虎杖筆。 |
寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没。常世田長翠は春秋庵を継承。 寛政5年(1793年)、長翠から春秋庵を譲られる。 |
寛政6年(1794年)3月23日、葛三は信州に向かう途中、双烏の紅蓼庵で三吟歌仙を残す。 同年7月、虎杖庵滞留中の春鴻と共に奥羽行脚に出る。 同年8月、秋田の五明、南部の素郷、仙台の図南、鉄仙、白石の乙二を訪ねる。 |
みちのくを見て来て梅の師走哉 |
同年10月18日、三浦柴居没。葛三は鴫立庵八世庵主を併庵。 |
寛政7年(1795年)2月、西上人六百遠忌正当法要。『衣更着集』(葛三編)刊。 寛政7年(1795年)、『春秋稿』(第六篇)刊。葛三編。春鴻序。 寛政8年(1796年)9月16日、『春秋稿』(編次外)跋。 寛政9年(1797年)9月10日、倉田葛三は鮫洲の海晏寺で白雄七回忌を営む。『春秋稿』(第七編) |
寛政10年(1798年)10月11日、鈴木道彦は倉田葛三らと荘厳寺の無説上人を訪ねた。 寛政10年頃、春秋庵を其堂に譲り、大磯に鴫立庵住む。 |
享和元年(1801年)2月、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ赴く途中で倉田葛三を訪ねたが、留守だった。 |
年ごろなつかしがりし葛三坊他に出てなし。空菴まことの鴫たつさはなり。 |
享和元年(1801年)8月、葛三の秋暮亭再建。『風やらい』。 享和2年(1802年)、葛三は伊那に伯先を訪ねた。虎杖庵で越年。 享和3年(1803年)、露柱庵春鴻は71歳で没。 |
坎水園のせうそこにきこゆる香語は 八重葎さかみにうきをしり初めし |
文化元年(1804年)、『きのえね』(葛三編)。 文化元年(1804年)、『香組艸(かぐみぐさ)』(伯先編)。自序。秋暮葛三跋。 文化2年(1805年)10月16日、夜琴亭松十寂。葛三は『いさりの俤』に跋文を書いている。 文化3年(1806年)7月4日、菜窓菜英は鴫立庵を訪れたが、庵主葛三は留守。 文化3年(1806年)、柴居の十三回忌に『頓写のあと』刊。十時庵道彦序。 文化4年(1807年)、白雄十七回忌で葛三は鴫立庵に白雄の句碑を建立。記念集『くさかね集』(葛三編) |
文化5年(1808年)、多賀庵玄蛙は鴫立庵を訪れ5日滞在している。『萍日記』 文化6年(1809年)8月、葛三は雉啄を伴い九州・四国を行脚。 文化6年(1809年)10月12日、義仲寺の時雨会に列席。 |
一座捻香 |
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相模鴫立沢 |
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あは海のあはもうれしきしくれ哉 | 葛三 |
文化8年(1811年)頃、再び春秋庵を継ぐ。 文化9年(1812年)夏、虎杖は鴫立庵八世庵主葛三を呼び寄せ、虎杖庵二世を継がせた。 同年6月16日、一茶は柏原に向かう途中で虎杖菴に入る。 |
文化11年(1814年)、葛三選句の俳額を長谷観音堂に奉納。 |
山ざくら日のくれてから見つけたり | 庵中 | 武曰 |
うめが香やちいさき家もあれバある | 鳳秋 |
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うぐひすの声のはづみや藪はなれ | 八郎 |
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はつ雪やまたせて置いた甲斐のある | 雉啄 |
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○ |
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菜の花を嗅ハ梅津の月恋し | 三千彦 |
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我ための夜々の柱や高燈籠 | 亡人 | 長翠 |
うめ咲(い)てかくれきられぬいほりかな | 梨翁 |
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○ |
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今朝ハはや嬉しげにちるさくらかな | 虎杖庵 | 葛三 |
文化11年(1814年)8月3日、一茶は江戸に出る途中で戸倉虎杖に入る。 文化12年(1815年)、虎杖は梨翁と改名。『豆から日記』 同年、葛三は虎杖庵を去り、鴫立庵に帰る。門人の葛古は随行し、鴫立庵で越年。 |
文化13年(1816年)秋、蟹殿洞々全国行脚の記念集『的申集』。随斎成美序。路齋一峨校。鴫たつ庵葛三跋。 文化14年(1817年)、春秋庵を碩布に譲る。 文政元年(1818年)6月11日、碩布は大磯の鴫立庵に葛三を訪れた。 |
鴫立葛三をいたむ 虎か雨又ふる事の出來にけり |
文政2年(1819年)11月、雉啄は『葛三句集』を上梓。 文政6年(1823年)、葛三七回忌に葛古は『筑紫みやげ』を上梓。雉啄序。雨塘跋。 |
昭和22年(1947年)11月12日、葛三居士百三十年忌追善記念に葛三顕彰會・十万石吟社共同で葛三の句碑を建立。 |