俳 書
『鹿島紀行』
常陸潮来の本間家に「鹿島詣」の真蹟が伝わり、秋瓜が三代目画江から譲り受けて板行。宝暦2年(1752年)8月、麦浪「後序」。 貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は曽良・宗波を伴い鹿島神宮に向け江戸を発つ。 |
いまひとりは、僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にも渡りぬべく、門より舟に乗りて、行徳といふところに至る。舟をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力をためさんと、徒歩よりぞ行く。 |
甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、ゝ(お)のゝ(お)のいたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山にむかふに高く、二峯ならびたてり。かのもろこしに双剣のみねありときこえしは、蘆山の一隅也。 |
と詠(ながめ)しは、我門人嵐雪が句也。 |
日既に暮かゝるほどに、利根川のほとりふさといふ所につく。此川にて鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。 |
ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を發せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるにゝたり。 「根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしける」のは鉾田市阿玉の大儀寺であるともいう。 |
あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月みにきたるかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷憺の人ならむかし。 「かの何がしの女」は清少納言のこと。『枕草子』「五月の御精進のほど」(九五段)の話である。 |
をりをりにかはらぬ空の月かげも |
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ちゞのながめは雲のまにまに | 和尚 |
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月はやし梢は雨を持ながら/A> | 桃青 |
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寺に寝てまこと顔なる月見哉 | 同 |
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雨に寝て竹起かへるつきみかな | 曾良 |
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月さびし堂の軒端の雨しづく | 宗波 |
神 前 |
此松の実ばへせし代や神の秋 | 桃青 |
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ぬぐはゞや石のおましの苔の露 | 宗波 |
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膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲 | 曾良 |
田 家 |
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刈りかけし田づらのつるや里の秋 | 桃青 |
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夜田かりに我やとはれん里の月 | 宗波 |
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賤の子やいねすりかけて月をみる | 桃青 |
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いもの葉や月待里の焼ばたけ | タウセイ |
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野 |
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もゝひきや一花摺の萩ごろも | ソラ |
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はなの秋草に喰あく野馬哉 | 同 |
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萩原や一よはやどせ山のいぬ | 桃青 |
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帰路自準に宿す |
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塒せよわらほす宿の友すゞめ | 主人 |
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あきをこめたるくねの指杉 | 客 |
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月見んと汐引のぼる舟とめて | ソラ |
寛政2年(1790年)、平山梅人が杉風伝来の芭蕉真蹟を模刻して『かしま紀行』を刊行。 |