俳 人

蟹殿洞々
indexにもどる

上荻野村の生まれで、本名は高橋市郎兵衛。

倉田葛三の門人。初号東洞、後に陶々、更に蟹殿洞々と改号。

蟹殿洞々は井上士朗を訪れているようである。

   つくしの果まて見めくり来て、さ
   かみのくにへかへるといふ洞々に

見なれたるものこそよけれ不二の山


 文化13年(1816年)、全国行脚の記念集『的申集』

 文政9年(1826年)、風月齋塚主は芭蕉の句碑を建立。



山里は萬歳おそし梅の花

風月齋塚主を催主として万句合が催された。

 台座に万句判者太白堂孤月、蟹殿洞々、松竹舎梅谷、その他多くの俳人の名前が刻まれている。

 天保2年(1831年)9月20日、渡辺崋山は相州厚木に赴く時に洞々のことを聞いて書いている。

 又、高坐郡当麻といふに時宗の寺あり。これを当麻山無量光寺といふ。寺主陀阿、俳諧好す。名あり。荻野といふ所に洞々といえる俳師あり。


天保6年(1835年)7月15日、69歳で没。

 安政2年(1855年)、洞々の二十回忌で石神社(現在の荻野神社)境内に洞々の句碑建立。


大空は蓋も實もなしほとゝきす

昭和61年(1986年)、再建。

洞々の句

八十島を越行舟やつゝし狩


うくひすや浅茅のすへの屋敷あと


朝虹や寒だけ立し箱根山


蓙きれの鳶にもならずあきの暮


蔓草やどこ迄伸て盆になる


蔓草や何處迄延て盆になる


嬉しくて耻しきものは炭だはら


うれしくて恥しきものすミ俵


貝甲(ヘタナリ)は眠し松魚はあはたゞし


みの虫も何ぞにかへれ花のはる


荻の声我家をこへて何処へ行


蔓艸やどこ迄延て盆になる


蜑が子の泣ずに遊ぶかすみかな


曇れとて鳴る歟卯浪の大心


心あらはさかへ崩れよ雲の峰


俳 人に戻る