蕉 門
山本荷兮
名古屋の医者。本名山本周知、通称は武右衛門、別号は橿木堂。「凩に二日の月のふきちるか」の句によって「凩の荷兮」と称された。 |
山本武右衛門、昌達ト号ス、法橋ニナル。橿木堂、こがらしの荷兮ト云ハルゝナリ。和歌にも物かの藏人、日頃の正廣、あくかれの兼與、白炭の忠知、さまざまあり。名古屋桑名町ニ住ス當代山本太市、なごや中丁ニ今ハ住ス。成瀬侯ヨリ松平冠山公ヘノ來書也。
『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿) |
貞享元年(1684年)の冬、芭蕉は『野ざらし紀行』の途上名古屋に立ち寄り、土地の青年俳人を連衆として『冬の日』の巻々を興行した。 |
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 | 芭蕉 |
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たそやとばしたる笠の山茶花 | 野水 |
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有明の主水に酒屋つくらせて | 荷兮 |
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かしらの露をふるふあかむま | 重五 |
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朝鮮のほそりすゝきのにほひなき | 杜国 |
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日のちりぢりに野に米を刈る | 正平 |
貞享3年(1686年)、『春の日』刊。 貞亨4年(1687年)11月18日、荷兮は鳴海の知足亭に芭蕉を訪れて、歌仙。 |
鳴海にて芭蕉子に逢ふ(う)て |
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いく落葉それほど袖もほころびず | 荷兮 |
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貞亨4年(1687年)11月26日、荷兮宅で連句。落梧は芭蕉を岐阜に招いた。 |
同じ月末の五日の日名古やの荷兮宅へ行たまひぬ。同二十六日岐阜の落梧といへる者、我宿をまねかん事を願ひて |
凩のさむさかさねよ稲葉山 | 落梧 |
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よき家続く雪の見どころ | ばせを |
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鵙の居る里の垣根に餌をさして | 荷兮 |
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黍の折レ合道ほそき也 | 越人 |
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貞亨5年(1688年)6月、岐阜に芭蕉を訪ね、落梧亭で三つ物。 |
落梧亭 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蔵のかげかたばみの花めづらしや | 荷兮 |
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折てやはかむ庭の箒木 | 落梧 |
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たなばたの八日は物のさびしくて | 翁 |
『笈日記』(岐阜部) |
貞亨5年(1688年)7月20日、芭蕉は荷兮、越人と共に竹葉軒長虹和尚を訪れて歌仙興行。 |
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 | 翁 |
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藪の中より見ゆる青柿 | 長虹 |
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秋の雨歩行鵜に出る暮かけて | 荷兮 |
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月なき岨をまがる山あい | 一井 |
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ひだるしと人の申ばひだるさよ | 越人 |
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藁もちよりて屋根葺にけり | 胡及 |
貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は荷兮の下僕を携えて『更科紀行』の旅に発つ。荷兮は餞別の句を贈っている。 |
さらしなに行人々にむかひて |
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更級の月は二人に見られけり | 荷兮 |
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貞亨5年(1688年)9月17日、其角は鳴海の知足亭から名古屋の荷兮亭へ。 |
荷兮が室に旅ねする夜、草臥なを(ほ)せとて、 |
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箔つけたる土器出されければ |
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かはらけの手ぎは見せばや菊の花 | 其角 |
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元禄2年(1689年)、『阿羅野』(荷兮編)。 元禄3年(1690年)、芭蕉は膳所で越年した。1月2日、荷兮宛書簡がある。 |
越人へ冬申達候。相届可レ申候。年始無レ恙哉。歳旦三つ物御家例可レ為と存候。おましの浦に波枕して、めづらしきとしをむかへ候。 歳暮 何に此師走の市に行くからす 都の方をながめて 菰を着て誰人ゐます花の春 撰集抄の昔をおもひ出候まゝ、如レ此申候。 |
元禄6年(1693年)11月、『曠野後集』(荷兮撰)自序。 |
巻頭に幽斎・宗因などの句を載せ、序文に「たゞいにしへこそこひしたはれるれ」と貞門俳諧を賞賛し、芭蕉から離れていった。 |
元禄7年(1694年)5月22日、芭蕉は名古屋を訪れ荷兮亭で歌仙。 |
荷兮亭 |
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世は旅に代かく小田の行戻リ | 翁 |
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水鶏の道にわたすこば板 | 荷兮 |
元禄7年(1694年)、『ひるねの種』(荷兮編)。 |
一年芭蕉越路にいたり、古き名所を尋て、月の十句或人かたりけれど、過行年月の程経て覚束なし、耳の底纔にのこるを三四句しめしとゞめぬ。 |
淺水橋 あさむつや月見の旅の明はなれ 玉江 月見せよ玉江の芦を刈ぬ先 湯尾 月に名を包ミかねてやいもの神 燧山 義仲の寐覚の山か月悲し 濱 月のみか雨に相撲もなかりけり |
伊豆市原保に妙泉寺に「はせを翁」と刻まれた句碑があるが、「荷兮」の句の誤伝である。 |
剃 髪 西行の水にめしたくさくら哉 僧の路通、おもひたつ心とゞまら ざりければ さみだれや夕食くふて立出る 凩に二日の月の吹ちるか 美濃にて宗祇の藤を尋(たづぬる)比 其藤の古根や秋のやどり草 麦喰し雁とおもへど別れかな 鵜の面に篝(かがり)かゝりてあはれ也 凩に二日の月のふきちる歟 蔵のかげかたばみの花のめづらしや こからしに二日の月の吹ちるか しつや賎御階にけふの麦厚し |