俳 人
藤風庵可長
下フサ金原 あちや六右衛門 可長 |
可長の名が『知友録』に見られるから、一茶は寛政3年(1791年)には可長を知っていたわけである。 |
台石には「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」とあるそうだ。 本土寺ではしばしば「翁会」と称する句会が催され、小林一茶も文化元年、文化2年、文化4年の「翁会」参加している。 |
藤風庵可長は今日庵の門人で、文化元年(1804年)芭蕉翁の第百十壱回忌に当り、本堂階前に追善句碑を建立した同門の一人であり、昭和53年可長第百六拾参回忌に因み、可長より七代目の子孫、小金町住人で、当山総代永妻和男氏が先祖の供養のため、可長の師に当る今日庵元夢の筆跡を表に、可長の句を裏に刻んで、之を建立した。 |
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実(げ)にやけふ百味の薫る芭蕉の会 苗代や二日の月の水はなれ 霜枯の藪やかならず茶のけぶり |