天明4年(1784年)頃、『菅の小蓑集』(其両編)刊。重厚序。
天明6年(1786年)3月、重厚は春秋庵を訪れる。
天明7年(1787年)、立砂を訪れ、重厚が20年の旅行中に芭蕉の発句を拾い集めた手牌を与えた。
天明8年(1788年)3月16日、蝶夢は甲府を立ち江戸向かう途中で重厚に会い、重厚も共に江戸へ帰る。
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途中にて重厚入道に逢ふも、不思義に嬉し。川中島の善光寺え入道、志あるよし、和尚に逢ふて、無下に東都へ帰りともなはるゝ。
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同年4月7日、成美・蝶夢と隅田川で舟に乗る。
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七日、和尚・重厚・其由・麦宇と共に、御蔵前の成美子のいざなひに角田川の船に遊び、饗応。
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同年4月9日から1週間、白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行った。
同年、再び盛岡を訪れ、平野平角の別墅梅園に滞在。『其梅』
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既に九年の春秋を經てふた
たひ岩手の關を」こゆる
鑪山や五月五日の草ふまん
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同年8月16日、夜食房夜来と共に宮古を訪れる。
同年9月5日、恐山に参る。『奥の紀行』
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重厚は夜来と共に松前に渡ったようである。
重厚入道に隨身して蝦
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夷まつ前にわたるとき
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縦横に草鞋ふみけり露時雨
| 夜來
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寛政3年(1791年)、秋田の吉川五明を訪れる。
寛政3年(1791年)7月12日、『はすのくき』(三白編)上梓。
寛政4年(1792年)、義仲寺に入り無名庵七世となる。
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寛政5年(1793年)、蝶夢の後援で芭蕉百回忌を営む。
寛政7年(1795年)、立砂は芭蕉百回忌記念に『もとの水』(重厚編)を上梓。
同年10月12日、『しぐれ会』(寛政7年刊)
寛政8年(1796年)1月24日、重厚は龍ヶ丘に蝶夢の供養碑を建立。
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「蝶夢法師」

寛政12年(1800年)、去来の句碑建立。記念集『いははな集』(支兀編)。重厚序。
同年4月2日、義仲寺の重厚から一茶に手紙が届く。
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三月五日
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一すりもの入一通 義仲寺重厚 四月二日とゞく
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寛政年間(1789〜1800)、重厚の後見で群馬県伊勢崎市に芭蕉の句碑を建立。
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時鳥招や麥のむらを花
享和元年(1801年)8月、星布は芭蕉句碑建立の記念集『蝶の日かげ』刊。重厚序。
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文化元年(1804年)1月18日、67歳で没。
滋賀県大津市の芭蕉道統歴代句碑に重厚の句がある。

八朔やかしこき梅の品定め
天保2年(1831年)11月、桃青霊神社を建立。
副碑に重厚の句が刻まれている。

歌は出雲八重かき、連歌は甲斐の
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酒折の社、俳諧は筑紫高良山に
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桃青霊神いまして永く風流のみちを
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守護し玉ふ
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今よりはぬさともならん枯尾花
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