蕉 門
内藤丈草
寛文2年(1662年)、尾張犬山藩士禄百石の内藤源左衛門本守の長男として生まれる。 |
發句して笑はれにけり今日の月 此句は林之助といひける 九歳の時、はじめて言出 せる句の由 |
延宝3年(1675年)、尾張徳川家寺尾土佐守直竜の看護役として仕える。 元禄元年(1688年)、27歳で致仕、出家して京都に住む。 |
血を分けしものと思はず蚊の憎さ |
元禄2年(1689年)、寺尾土佐守直竜の侍医中村史邦の紹介で芭蕉に入門。 元禄4年(1691年)4月25日、丈草は史邦と共に落柿舎滞在中の芭蕉を訪ねている。 元禄4年(1691年)7月3日、『猿蓑』(去来・凡兆共編)刊。丈草跋。 元禄4年(1691年)秋、芭蕉は乙州、丈草らと竜が丘にあった丈草の知人荘右衛門の山姿亭を訪れているという。 |
元禄6年(1693年)、丈草は故郷の犬山に帰る。去来は野水の案内で名古屋から犬山を訪れている。 元禄6年(1693年)6月、長崎の卯七は上京。落柿舎に去来を訪ねる。丈草と共に三吟歌仙を巻く。 |
元禄のはじめ都にのぼり、落柿舎を扣 |
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ひて |
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京入や鳥羽の田植の帰る中 | 卯七 |
うれしとつゝむ初茄子十ヲ | 去来 |
元禄6年(1693年)8月、丈草は洛の素牛を伴い浪花に洒堂を訪ねる。 |
夜舟より上りて洒堂亭に眠 る いなづまや夜明けて後も舟心 |
元禄6年(1693年)秋、江戸に出る。惟然は石山まで送っている。 元禄6年(1693年)10月、『流川集』(露川編)刊。丈草序。 元禄7年(1694年)閏5月22日、京都嵯峨の落柿舎で句会。 |
閏五月二十二日 |
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落柿舎乳吟 |
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柳小折片荷は涼し初真瓜 | 芭蕉 |
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間引捨たる道中の稗 | 洒堂 |
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村雀里より岡に出ありきて | 去来 |
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塀かけ渡す手前石がき | 支考 |
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月残る河水ふくむ舩の端 | 丈艸 |
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小鰯かれて砂に照り付 | 素牛 |
『市の庵』(洒堂撰) |
元禄7年(1694年)10月12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。14日、木曽塚の右に並べて埋葬。 |
芭蕉翁の七日七日もうつり行くあはれさ、猶無 |
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名庵に偶居してこゝちさへすぐれず、去来がも |
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とへ申つかはしける。
朝霜や茶湯(タウ)の後のくすり鍋 | 丈艸 |
かへし |
朝霜や人参つんで墓まい(ゐ)り | 去来 |
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元禄7年(1694年)11月、『ねころび草』(丈草著)自跋。 元禄8年(1695年)、惟然は義仲寺の「無名庵」に丈草を訪ねる。 元禄8年(1695年)3月上旬、『ありそ海・となみ山』(浪化編)成立。去来後見。丈草序。 元禄8年(1695年)、丈草は彦根の許六を訪ねている。 |
遊五老井 二句 早咲の得手を桜の紅葉哉 あを空や手ざしもならず秋の水 |
元禄8年(1695年)、丈草は伊賀へ赴き、芭蕉の墓に詣でている。 |
いがへおもむくとき、ばせを翁墓にまう でゝ ことづても此とを(ほ)りかや墓のつゆ |
元禄9年(1696年)、義仲寺境内の竜ケ岡に仏幻庵を営む。 |
元禄9年(1696年)、十丈は丈草を訪ねる。『射水川』 |
元禄10年(1697年)、惟然は都を出て北陸から奥羽行脚。 |
惟然行脚を送りて 炎天に歩行(あるき)神つくうねり笠 |
元禄11年(1698年)3月、『淡路島』(諷竹編)刊。丈艸序。 元禄12年(1699年)7月、『旅袋集』(路健編)。丈草序。 元禄13年(1700年)、故郷の犬山に帰るが、暑さに耐え兼ねて美濃へ。 |
舊里に歸りて 精靈に戻り合せつ十年ぶり 犬山にて市中苦熱 涼しさを見せてやうごく城の松 |
元禄13年(1700年)、伊勢の俳人笑々齋一吟は芭蕉の七回忌で義仲寺に詣でる。 |
湖上の木曾寺はまさしく其形を収し所なれは見る人立むかひて彼墮涙の碑にひとしきもむへ也。伊賀の上野は流石に故郷なるにそしたしきかきり引續て墓前の勤いと念比也けり美濃國杭瀬川の水草清く心さしむかへる正覺寺には釘貫さしまはして苔むせる塔面物靜也湖北平田の明照寺には笠塚と名付て行脚の古笠を埋めるありとそはるかなる東武の深川には長慶寺の發句塚有よにふるは更に宗祇のやとり哉と書れ侍る短冊壹枚を以て塚のあるしとそなせりけるはた近き頃傳聞ぬるは西國の諸生志を押て肥前の長崎筑前の黒崎豊後の日田にも各々一面の石を立て香花の營をなせりとぞ落葉をくゝる時雨もさこそとおもひやらるゝ空の殊にかの邊は古翁往昔行脚の望深く侍しに今其塚の主となりて吟魂の悦いか計にやと一入の哀をもよをしぬ其外も猶あるへけれとほの聞く迄に書き終れり
『雪の葉』(一吟編) |
元禄15年(1702年)2月22日、浪化は支考と共に都を離れ丈草を訪ねる。。 元禄15年(1702年)10月、去来は仏幻庵に丈草を訪ねる。 |
去々年の~無月、一夜の閑を盗み草庵に宿りて、寒き夜やおもひつくれば山の上、と申てこよひの芳話に、よろを忘れけりと、其喜びも斜ならず。更け行くまゝに、雷鳴地に響き、吹く風扉を放ちければ、虚室欲夸閑是寶、滿山雷雨震寒更と興じ出でられ、笑ひ明して別れぬ。
「丈艸カ誄」 |
元禄15年(1702年)11月、『渡鳥集』(卯七・去来編)丈草跋。 元禄16年(1703年)10月9日、浪化は33歳で没。 |
御あとしたひ侍るへき程に、やみ |
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ふしたれは、小詞の片はしにもお |
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よはす |
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悲しみの根や三越路に殘る雪 | 丈艸 |
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元禄16年(1703年)12月8日、芭蕉を供養するために法華経塚を建立。 |
芭蕉翁七回忌追福の時、法 華狂頓寫の前書あり 待受けて經書く風の落葉かな |
悼僧丈草 馬道や菴をはなれて霜の屋ね |
宝永元年(1704年)5月、丈草追善集『幻の庵』(魯九編)刊。鳥落人序。 安永3年(1774年)、『丈草發句集』(蝶夢編)刊。 |
幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋 追鳥も山に帰るか年の暮 幻住菴頽廃の跡一見して 霜原や窓の付たる壁のきれ 水壷にうつるや花の人出入 餞別 見送りの先に立けりつくつくし 咲立て柴のならぬや躑躅山 雷おつる松はかれ野のはつ時雨 野山にもつかて昼から月の客 淋しさの底ぬけてふるみそれ哉 取付ぬちからで浮ぶ蛙かな 取つかぬちからてうかふ蛙かな あら猫のかけ出す軒や冬の月 大原や蝶の出て舞おぼろ月 かさの緒の跡すさまじやけふの月 木曾川のほとりにて 流木や篝火の上にほとゝぎす 行春や星も嵐も春の持 かりかけし庵の噂やけふの月 着てたてば夜のふすまはなかりけり |