俳 人

岩崎児石
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元名村名主岩崎善右衛門。

一茶の『知友録』には「房州市井原」とある。

房州
市井原  児石

房州
 岩崎勘兵衛 児石

『知友録』

一楽、甫山、孤竹、鹿毛、文雅、陶渚とともに「葛飾の七老」と称された。

鹿毛は金谷村名主小綿孫平次。

 寛政2年(1790)4月、馬光の句碑を鋸山日本寺に建立。



引きおろす鋸山の霞かな

小林一茶は師竹阿の代参として参列している。

 文化2年(1805年)7月25日、一茶は元名に入る。

廿五日 晴 元名ニ入

『文化句帖』(文化2年7月)

 文化8年(1811年)7月21日、一茶は元名に入る。23日に天寧寺の九年母の実を見に行った。

廿一 晴 元名ニ入 昨廿日七才の女子水死 今日葬

『七番日記』(文化8年7月)

文化9年(1812年)9月3日、児石没。

 文化11年(1814年)10月8日、一茶は存林寺に児石の墓参りをしている。

八 晴 児石墓詣

『七番日記』(文化11年10月)

存林寺


児石の句

名に高き塚やかすミの道しるべ


何が苦で斯うはくびれそ種瓢


味噌煮や鳥渡り来て後の雨

秋暮る門に花持瓢哉

渋柿の朝から暮るゝけしき哉

鳴子引迄の窓也片山家

『文化句帖』(文化2年7月)

なけなしの梅をさいさい霰哉


なけなしの梅をさいさい霰哉


見殺しにすると思ふなきりぎりす


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