俳 人
久保島若人
若人 上諏訪 久保田権平 |
明和2年(1765年)、高島藩士の子に生まれる。 寛政4年(1792年)10月17日、栗庵似鳩は藤森素檗の家に泊まる。若人は素檗亭を訪れて俳諧。 享和元年(1801年)、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で若人亭を訪れた。 |
若人亭 |
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照射すと見ればこそ問へ漁舟 | 士朗 |
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水鶏の宿の月の世話しき | 若人 |
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梛の木のおのが嵐に草臥て | 卓池 |
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芝に居れば顔がべかつく | 松兄 |
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文化5年(1808年)5月29日、小林一茶は草津の雲嶺庵を訪れて諏訪の若人に会っている。 |
長野原など過ぎて草津の雲嶺庵に入、十八年へだゝりての再会也、スハの若人匏宇に逢ふ。 |
湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎 |
文化9年(1812年)12月8日、『信濃札』(素檗編)。若人跋。 |
信州若人亭 七夕後朝(きぬぎぬ) 朝皃の花に澄みけり諏訪の湖 |
文政元年(1818年)5月、半場里丸は身延山詣でに出立。若人を訪ねている。 |
親子してよみ古るしけりなつはらゐ |
文政6年(1823年)、素檗の三回忌に『素檗句集』を刊行。 天保5年(1834年)10月、記念集『花鱠』序。 天保7年(1836年)2月、芭蕉の句碑を建立。 |
天保11年(1840年)7月4日、田川鳳郎は久保島若人を訪れている。 |
四日、夕方上諏訪若人へ移る。主人せちに饗じ、はた連衆各安否を訪ふ。滞杖屡六日の夜に成れり。 もとすゑに古歌も有たし天の河 |
『曽良随行日記』は河西周徳に伝来したが、その後久保島若人の手に渡った。若人は江戸へ売り払った。 |
昭和18年(1943年)、山本安三郎が『曽良奥の細道随行日記』と題して翻刻した。 |
卯の花の咲て露けき茶畑哉 秋立や月夜となれば人も来る かきわけて見ても山吹のたよりなし 夕波をもつて出けりはるの月 鶯の老るも知らぬ麦ばたけ 桐一葉めし炊こともなかりけり 松風のいたづらするやほとゝぎす きのふにも降べきものを春の雨 きのふにも降べき物を春の雨 ふぢ豆に引たふさるゝ萩の花 十六夜は暮ぬうちからしづか也 忘れても萩ハ能日に散にけり ふち豆に引たふさるゝ萩の花 郭公鳴た空なり見て置ん 正月は雨のもる日を覚けり 菊買ふやけふは莟(つぼみ)てまをあはせ あさがほやとりつくものも草の花 我ものになれば掃れず門の雪 十六夜の闇は捨てもすてられず 赤菊のよわみに落る西日かな 天の川枯野になれバ音もせず 白露かこほれて来たり竹の杖 朝がほやとりつくものも草の花 きのふにも降べきものを春の雨 きのふにも降べきものを春の雨 ほとときす鳴た空なり見ておかん 降止し夜も春雨の降こゝろ 水遺ふ音も聞えて青すだれ |