俳 人
安田以哉坊
宝暦5年(1755年)、東武行脚。『葛の別』・『茶摘笠』 宝暦8年(1758年)、美濃派(獅子門道統)五世を継承。 明和2年(1765年)、奥羽行脚。『奥羽行』(以哉坊編) 明和6年(1769年)10月12日、帰童仙門人の恵方庵富無三は「落葉塚」を建立。 |
落葉つかやいとなみ事も有のまゝ | 以哉坊 |
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けふといふけふ光る初霜 | 無三 |
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母か手に着て来た衣装風入れて | 麦士 |
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『落葉川』 |
以哉坊の「松島の膝でもみきる舟の呉座」に師匠の五竹坊が「眺めにもめる」と加朱したところ、それ以来子弟の間に争いが出来、破門されたという。 |
安永3年(1774年)8月、筑紫を訪れ太宰府に参詣している。 安永4年(1775年)3月21日、楊柳舎以文の妻女世理は以哉坊を訪ねた。 |
過し比北越経回ありし折から、我亭にもやとし参ら |
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せける以哉老師のもとを尋ねて |
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世理 |
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旅姿春の山にも笑われん |
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届く誠の笠ハ霞ます | 以哉坊 |
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安永5年(1776年)、富田無三は尾張・美濃紀行。以哉坊を訪ねる。 |
一年一年と雅師のもとへ訪ひおくれし |
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かことし菊の莟めるころ来杖の折から |
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例の教戒の浅からさるより猶はたした |
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はしかりしかしはらくのいとまを得し |
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も風雅の幸ひならんと此冬はしめて雪 |
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炊庵を窺ひ侍りて |
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無三 |
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寒菊やなつかしい香も秋以来 |
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秋以来また塵に置く霜 | 以哉坊 |
福岡県吉富町の天仲寺公園にある美濃派の句碑に「つゝ立て杉こゝろなしけさの雪」の句が刻まれている。 |
松くれた人に見せたし今朝の雪 鶏頭や十王堂のつかみたて 雉子啼やもとより山は無一文 |