俳 人
櫟原君里
儒学者。本姓は栗田。元祖七兵衛は大和国平群郡櫟原村塚内の生まれであったので、地名をとって氏とした。代々垂井宿本陣を務め、酒造業を営んだ。 |
明和8年(1771年)、師訂斎より孔子の聖像を譲りうけ、明倫堂を建立し子弟を教育した。 その後、明倫堂を垂井の清水のほとりに改築し泗水庵と称し、孔子の像を中心に顔子、曽子、子思、孟子、朱子の像を祭る。 |
安永5年(1776年)、君里は幻住庵の旧跡を訪ねている。 |
折から湖南の国分山幻住庵の旧跡に |
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いたりて |
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美濃垂井 |
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しくれ会やたちよる陰もも椎の下 | 君里 |
安永9年(1780年)3月、蝶夢は木曽路を江戸へ向かう途中、櫟原氏を訪ねている。 |
諷ひものに作りし鶏籠山は、上なる山をいふとぞ。垂井の宿に櫟原氏をたづぬ。その家にある聖堂を拝するに、かゝる駅の中に孔孟の道を伝へて、馬おふわらべ駕荷ふ男までに五常の事など教さとすぞ、有がたき心ばへなめり。垂井の水は玉泉寺といふ前にあり。涌出る水の玉のごとく、清冷いふべからず。 |
天明8年(1788年)2月29日、蝶夢は江戸へ下る途中で再び君里を訪ねている。 |
垂井の宿なる君里主は、老師の旧友とて訪ふ。暫く物がたりのうちに、珍味などもてなされて出る。 |
降捨て跡見ぬ松の時雨かな 侍のはしり通るや麦ほこり 粟津にもかくやしくれん翁の日 古翁の「人々に(を)しくれよ」とあり けるに思ひよりて 有かたや我もしくるゝ人の数 このしくれ空も翁の日を泣か 海原と見しは蚊屋なり雁の声 |