俳 人

櫟原君里
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 儒学者。本姓は栗田。元祖七兵衛は大和国平群郡櫟原村塚内の生まれであったので、地名をとって氏とした。代々垂井宿本陣を務め、酒造業を営んだ。

 明和8年(1771年)、師訂斎より孔子の聖像を譲りうけ、明倫堂を建立し子弟を教育した。

 その後、明倫堂を垂井の清水のほとりに改築し泗水庵と称し、孔子の像を中心に顔子、曽子、子思、孟子、朱子の像を祭る。

安永4年(1775年)11月29日、泗水庵の南に白根塚を建立。



葱白くあらひ上たる寒さかな

 安永5年(1776年)、君里は幻住庵の旧跡を訪ねている。

   折から湖南の国分山幻住庵の旧跡に
   いたりて
美濃垂井
しくれ会やたちよる陰もも椎の下
   君里


 安永9年(1780年)3月、蝶夢は木曽路を江戸へ向かう途中、櫟原氏を訪ねている。

 諷ひものに作りし鶏籠山は、上なる山をいふとぞ。垂井の宿に櫟原氏をたづぬ。その家にある聖堂を拝するに、かゝる駅の中に孔孟の道を伝へて、馬おふわらべ駕荷ふ男までに五常の事など教さとすぞ、有がたき心ばへなめり。垂井の水は玉泉寺といふ前にあり。涌出る水の玉のごとく、清冷いふべからず。


 天明8年(1788年)2月29日、蝶夢は江戸へ下る途中で再び君里を訪ねている。

垂井の宿なる君里主は、老師の旧友とて訪ふ。暫く物がたりのうちに、珍味などもてなされて出る。


寛政12年(1800年)1月2日、78歳で没。

泗水庵は同門の合田恒斎が継いだ。

文化12年(1815年)12月9日、西町の大火により泗水庵は半焼し、廃絶した。

君里の句

降捨て跡見ぬ松の時雨かな


侍のはしり通るや麦ほこり


粟津にもかくやしくれん翁の日


   古翁の「人々に(を)しくれよ」とあり
   けるに思ひよりて

有かたや我もしくるゝ人の数


このしくれ空も翁の日を泣か


海原と見しは蚊屋なり雁の声


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