俳 人
田川鳳郎
(頭書) | 西ノ久保飯倉片町自然堂 |
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鳳朗 | 西久保一万石上杉公御門前 | 田川氏 |
宝暦12年(1762年)、肥後国に生まれる。 寛政9年(1797年)、鈴木道彦に師事。 文化3年(1806年)11月3日、対竹が来たので随斎会で歌仙。 |
三日 晴 肥後対竹来ルニ付随斎会ニ歌仙有
『文化句帖』(文化3年11月) |
文化8年(1811年)2月29日、小林一茶は飯田に入る。 |
[廿]九 晴 飯田ニ入 同行四人也
『七番日記』(文化8年2月) |
一日 晴 寒風 兄直対竹北二茶月等飯田出立
『七番日記』(文化8年閏2月)
佐川田へかたるな花に朝寝すと 対竹 |
文化11年(1814年)9月24日、一茶は対竹を訪れる。 |
[廿]四 晴 申刻ヨリ雨 随斎ニ入 訪対竹
『七番日記』(文化11年9月) |
文化14年(1817年)7月4日、一茶は江戸から帰り、柏原に入る。 |
廿 旦雨 陰 申刻雨 妻赤川ニ入 以小玉団七出書 太キョウ 鶯笠 寿翁 陶里 一峨 久藏 車両
『七番日記』(文化14年7月)
成蹊子、こぞの冬つひに不言(ものいはぬ)人と成りしとなん。鶯笠のもとより此ころ申おこせたりしを、 |
「こぞ」は、文政元年(1818年)。「不言(ものいはぬ)人」は、中風による言語障害。成蹊子は『史記』(李広伝)「桃李不言下自成蹊」による。 文政3年(1820年)、『おぼろ物がたり』著。 文政5年(1822年)、伊勢に旅をする。 |
文政午年九月神風の伊勢に旅寐 して 御遷宮只々青き深空かな |
天保2年(1831年)、渡辺崋山は田川鳳郎について書いている。 |
鶯笠、一ニ太キョウト号ス。其姓名ハ不レ知。筑紫ノ人ト云フ。芭蕉葉船ヲ著、其書荒唐附会捧腹ニ不レ耐者、然レドモ発句ハヨシト其徒云フ。 |
天保10年(1839年)8月、梧城寸風は芭蕉の句碑を建立。田川鳳郎書。 |
天保11年(1840年)、田川鳳郎は信州から越後へ旅をする。『続となみやま』 天保12年(1841年)5月、百五十回忌に斎藤南々は深谷市の吉祥院に芭蕉の句碑を建立。田川鳳朗筆。 |
天保13年(1842年)3月、富処西馬は高崎市の清水寺に芭蕉の句碑を建立。田川鳳郎は記念の句会に江戸から臨席したそうだ。 天保13年(1842年)3月27日、応々尼没。 |
應々尼を悼む 葉がくれて春も殘さず姥櫻 |
同年10月12日、芭蕉の百五十回忌に草津の一夏庵竹烟は芭蕉の句碑を建立。田川鳳朗筆。 |
天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に二條家では田川鳳郎を名代とし古川外風を催主として、著名俳人を招き追悼の俳諧を興行。芭蕉に「花本大明神」の号が贈られた。 |
祖翁の遠忌に當りて神號を給り ける有がたさを、伊賀の連衆に 告まほしう立寄ける時、塚の御 前にすゝみて 隱るれば葉まで明るしかへり花 |
天保15年(1844年)、芭蕉百五十回忌に高崎市の八幡宮に神官矢口一彡は芭蕉の句碑を建立。田川鳳朗筆。 |
嘉永3年(1850年)、『鳳朗発句集』(惺庵西馬編)刊。 嘉永3年(1850年)、岡本五右衛門憲孝(のりたか)(俳号・姫山)・憲明父子は南梨平の才蔵山に「花本大明神碑」を建立。揮毫は田川鳳朗。 |