俳 人
松風庵玉斧
八日市場蕪里(現:匝瑳市蕪里)の俳人大木幸太夫。水戸の二世松風庵胡蝶に俳諧を学び、三世松風庵を嗣号した。銀杏亭。 宝暦9年(1759年)秋、建部凉袋は門人山河房烏朴・一茶坊破了を伴い銀杏亭を訪ねた。 明和元年(1764年)の冬頃、三世宗瑞は御所台の兎勇を伴って玉斧を訪れる。 明和7年(1770年)、『初霞』(玉斧編)刊。 安永元年(1772年)から寛政5年(1793年)まで『松風庵客名録』と題する交遊録がある。 『松風庵客名録』に吸露庵涼袋が「一茶」を伴って松風庵を訪ねたことが記されているそうだ。 |
安永7年(1778年)8月24日、横田柳几は玉斧を訪ねている。 |
程なく蕪里村銀杏亭玉斧のもとに至るあるしは用の事有て家形といふ郷にありと人を走らせて戻りを待日暮れ帰り来てこし方のもの語にやゝ夜更て枕を傾く |
あるし他にあり暫く帰りを待間に客名録をくり返して伽とす |
句帳からも散銀杏あり亭の秋 | 柳 |
天明4年(1784年)夏頃、一叟は玉斧を訪ねている。 天明6年(1786年)10月、玉斧は美丸に伴われて秋田の小夜庵に五明を訪ねた。 天明7年(1787年)頃、松風庵を継承。記念集『矢さしが浦』(玉斧編)を上梓。 |
松風庵に泊る折から、この国の名ところねもころに語り聞かせたまふにそ、涼夜月の更るをしらす |
今宵のみ旅わすれけり夏座敷
東武散人 菊明坊一茶 |
かゝみほと顔出す窓や梅の花 蕣や北の家陰の花さかり 葉桜や鐘楼を洩る日の薄き |