俳 人
古田月船
澤近嶺は月船のことについて『春夢独談』で「おのれ父にひとしくおもう給へらるゝ人なるに」と書いているそうだ。 |
俳人一茶を支援し、一茶の月船亭泊りは前後四十数回、二百八十余日に及んだ。 文化元年(1804年)2月26日、一茶は布川の月船と東叡山に登った。 |
廿六日 晴 月船と登東叡山 |
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棒突も餅をうりけり山桜 |
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御山はどこ上つても花の咲 |
『文化句帖』(文化元年2月) |
文化2年(1805年)2月29日、古田月船は本所相生町に一茶を訪れている。 |
廿九日 曇 月船 一白来ル
『文化句帖』(文化2年2月) |
文化3年(1806年)正月25日、小林一茶は古田月船と同行三人で滝村の竜水寺、竜腹寺村の竜腹寺の梵鐘を見に行く。 |
廿五日 | 晴 月船と 同行三人滝村 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竜(龍)水寺鐘銘ニ建武五年トアリいぶかし | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竜腹寺村竜腹寺鐘銘 |
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南エンブ提大日本関東上総印西庄トアリ |
『文化句帖』(文化3年正月) |
文化7年(1810年)3月29日、一茶は流山から布川に入る。 |
廿九日 晴 野々下村通り柏村かゝりて我孫子駅にて昨夜の三人ニ別ル 布川ニ入
『七番日記』(文化7年3月) |
下闇の小口と見へ(え)てけぶり哉 | 月船 |
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明安(易)き夜に入かゝるけぶり哉 | 仝 |
『七番日記』(文化7年4月) |
鶯にすゝめられたる草履哉 | 月船 |
文化8年(1811年)5月12日、一茶は流山から布川に入る。 |
十二 晴 布川ニ入 去ル一日月船艸津入湯ト云
『七番日記』(文化8年5月) |
同年5月1日、月船は草津温泉で入湯したようだ。草津温泉には雲嶺庵露白がいた。 同年12月22日、小林一茶は布川に入り、文化9年の正月を布川で迎える。 |
廿二 晴 大西吹 布川ニ入
『七番日記』(文化8年12月) |
又小見川の里いかけしが人を殺し、ばくち打が追剥すなど、風聞みな此あたりなれば、小南行は思とゞまりて、布川の里にとしをとりぬ。 |
行としやたのむ小藪もかれの原 |
咲梅のうしろに不二の御兒哉 | 月船 | |
うしろからおぼろ月夜と成にけり |
『七番日記』(文化9年正月) |
文化九年正月十五日、下総国相馬郡布川の郷なる月船亭に日待といふことをして、人々ぞりて夜の明るをなん待ちける。 |
文化11年(1814年)8月28日、一茶は守谷から布川に入る。 |
十八 晴 守谷ニ入 |
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廿八 晴 布川ニ入 |
『七番日記』(文化11年8月) |
文化12年(1815年)10月26日、一茶は高谷から布川に入り、近嶺に逢う。 |
廿六晴 夜小雨 布川ニ入 逢近嶺 中山正中山法花経寺訪
『七番日記』(文化12年10月) |
篭(籠)山ニ入
『七番日記』(文化12年11月) |
文化13年(1816年)11月19日、一茶は流山から布川に入り、成美の死を知る。 |
[十]九 晴 布川ニ入 成美没
『七番日記』(文化13年11月) |
文化14年(1817年)6月7日、一茶は房総最後の旅で田川から布川を訪れた。 |
七 晴 布川 夜小雨
『七番日記』(文化14年6月) |
文政4年(1821年)2月5日、一茶は斗囿に手紙を出し、月船の消息を尋ねている。 |
二白、布川月船、折ふし句なども御聞被レ成候哉。今日庵迄舊とし申越し候へども、いまだ返事もなく、何とぞ風の便もあらば、御聞可レ被レ下候様二願上一候。舊友一入なつかしく被レ存候。
斗囿あて書簡(文政4年2月) |
取手の歌人沢近嶺は少年時代月船に俳諧を学び、生涯父とも慕って、その最後をみとった。 |
露はらはらきのふの雲の今かへる さく梅のうしろに不二の御顔哉 うしろからおぼろ月夜と成にけり 親と子や在所の雪の二日降る 花守がよ所の花見る月よ哉 鶯にすゝめられたる草履かな 花守が余所(よそ)の花見る月夜哉 秋の月親の建たる家に住 昼過の槇の高さよ更衣 二人して曲突(かまど)造るや秋の雨 虫売の出て夜に入るやうす哉 我と雁けふも夕を帰るなり さみたれの顔につかへる柱かな 両国 虫売の出て夜に入るやうすかな 下やみの小口に見ゆるけぶりかな |