俳 人

大高子葉
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名は忠雄。通称源五。赤穂浪士討ち入り四十七士の一人。

 寛文12年(1672年)、赤穂藩士大高忠晴の長男として赤穂に生まれる。

 元禄14年(1702年)秋、討入り前年に大高子葉は鬼貫宅に1泊した。

   一日は鬼貫にとめられて

かく山を引たてゝ咲しをに哉
   子葉

月はなし雨にて萩はしほれたり
   おにつら

「二ッの竹」

 元禄14年(1701年)9月、大高源吾が三島宿の問屋場で国蔵という雲助に難くせをつけられ、酒代とともに渡したとされる。その詫状が三嶋大社に残っているそうだ。

 元禄15年(1702年)12月13日、榎本其角は赤穂浪士討ち入り前夜に大高源五と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる。

年のくれ水のなかれも人の身も
   其角

あしたまたるる其のたから船
   子葉

英一蝶「其角・子葉邂逅図」

 元禄15年(1702年)12月15日、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士が吉良邸に討ち入る。

 元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士自刃。

松山市の興聖寺に辞世の句碑がある。


    子葉末期
梅てのむ茶屋も有へし
       死出の山

四十七士墓所の門


 元禄16年(1703年)7月13日、榎本其角は芝二本榎の上行寺へ墓参。帰途、泉岳寺前を通り、赤穂浪士の冥福を祈る。

文月十三日上行寺の墓にまふてゝかへるさにいさらごの坂をくたり泉岳寺の門さしのそかれたるに名高き人々の新盆にあへるとおもふより子葉春帆竹平等か俤まのあたり来りむかへるやうに覚えてそゝろに心頭にかゝれは花水とりてとおもへど墓所参詣をゆるさす草の丈おひかくしてかすかすならひたるもそれとたに見えねは心にこめたる事を手向草になして亡魂聖霊ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはふれ侍り


大高源五句碑

両国橋(東京都墨田区)

赤穂義士休息の地

(東京都江東区)

子葉と鬼貫の交歓句

三井住友銀行伊丹支店(兵庫県伊丹市)

大高源五像

赤穂大石神社(兵庫県赤穂市)

大高子葉の句碑

興聖寺(愛媛県松山市)

子葉の句

此かほり降う南や桐の花

   未来の花をつまは酒をたちて
   病をさけよと有し母をこひて

灸にて侘言申す夏断哉

炉開や鼻をならへて雨を聞


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