俳 人
多賀庵玄蛙
小田黙居。山県郡有田村の医師。広島に出て六合に俳諧を学ぶ。初号魚守。多賀庵三世。 |
享和2年(1802年)、多賀庵二世六合没。多賀庵三世を継ぐ。 文化2年(1805年)、玄蛙と称した。 文化4年(1807年)、多賀碑再建。 文化5年(1808年)、松島に旅をする。『萍日記』 文化6年(1809年)、倉田葛三は九州行脚の途上、多賀庵を訪れている。 |
胝の愈て年する奢り哉 | 葛三 |
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曲突の火はしの寒き物音 | 玄蛙 |
文化9年(1812年)、『やまかつら』刊。 |
文化12年(1815年)10月12日、粟津義仲寺の時雨会に参列。 |
何か降火桶の上の朝こゝろ |
鵯にねらはるゝ也冬ごもり 追ずともたつべき物を麥の雁 名月をうしろに庵の曲突哉 蚫とる人も戻りぬ秋の月 満月のさせはくつれて春の雪 行としのしらへを聞や松の庵 咲までは夕顔の名もなかりけり 山風やひとつかみ程枯尾ばな 蝶鳥につけ廻されて傀儡(ママ)師 住吉は歌の神也はるの海 蕣にしまりのつくや我こころ 鹿啼やものうたがひは夜の癖 日のすしや鳥は枯野の外を行 白過て解るか梅の朝雫 |
広島塩屋町の木地屋安平。志太野坡の門人。別号浅茅庵。広瀬村油池に草庵を結び、奥州の多賀城碑に倣って板碑を建てた。 |
去五左宇山 | 八里 |
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去小富士山 | 九里 |
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去周防國界 | 一百里 |
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去嚴 島 | 二十里 |
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去三龍山峰 | 五里 |
元禄11年(1698年)、広島に生まれる。 元文2年(1737年)10月10日、野坡は風律亭で歌仙興行。 宝暦6年(1756年)、『窓の春』(浮風編)。春陽庵杏雨序。風律跋。 宝暦12年(1762年)5月17日、有井浮風は61歳で没。 |
湖白菴主をいたむ はゝきゝやまたぬれて居るきみか笠 |
宝暦13年(1763年)5月、『その行脚』(諸九尼撰)。風律跋。 宝暦14年(1764年)6月2日、明和に改元。 明和元年(1764年)8月4日、風律は広島を出発して京坂・田子の浦に旅をする。 |
八月四日の暁鶏の聲もいつもよりハはなやかに横雲はなるゝ頃矢賀といふ所にて人々に名殘をおしむ 茶屋も今古酒に新酒の別哉 |
明和4年(1767年)、『湖白庵集』(諸九尼)。廣陵風律序。黄薇暮雨跋。 明和5年(1768年)、『松落葉集』。風律跋。 |
多富貴里 庵建て西行留む稲の花 |
明和8年(1771年)5月、蝶夢は風律を訪ねている。 |
広島の府に入り、風律老人が隠居にこしかたをかたる。宮嶋え(へ)の舟もとむるに、汐時あしければ、性牛といふ人のもとにやどりて一折興行あり。 |
安永3年(1774年)、『歳旦広島』(風律編)。 |
人々に蓬莱見せん庵の梅 算用のはてハ雑魚寝や年木売 |
風律老人年比住る庵の庭に、みちのくの多賀城の 碑になすらへて、京を去事何百里、嚴島を去こと 何里なといふ事をしるし、庵の名をも多賀庵と名 付しも今はむかし、其魂はいつくの浄土にやとな つかし ほとゝきす庵をさる事何百里 |
鋭(トキ)ものハ秋の嵐や門司すゝり 桃咲や上かふきなる正信偈 梅咲て女子となるや黒木賣 町筋は水打かくるしくれ哉 富はこそ薦を着て居れ冬牡丹 かけはしや手へ来ていぬる藤の花 ひらひらと涼し野花も青葉して 鴫たつや我片膝もひとり立 松一葉落て地に立あつさ哉 野釜たくきたない柴にしくれ哉 かや葺や板屋のこだま初しぐれ 笠とれハ何やら知れぬ案山子哉 山ぶきやものいふものは水の音 暑き日や土をくわえて飛鳥 慰にうき世捨ばや花の山 汐先にかしこ過たるちどりかな 草庵にありて 初霜や疝気の虫のかんこ鳥 なくさみにうき世捨はや花の山 |