俳 人

砂岡雁宕

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 下総結城の人。祖父宗春、父我尚はともに俳人として知られている。早見晋我は雁宕の叔父。早野巴人の高弟、与謝蕪村と親交を結ぶ。

 享保元年(1716年)4月、稲津祇空は砂岡我尚宅で烏山の潭北と落ち合い、共に奥羽行脚に出る。

 享保5年(1720年)、貞佐・潭北は下野を遊歴。我尚亭を訪ねている。

  結城我尚子の亭に臨て

陰あれはとくと花柚の中やとり
  貞佐

道をむすひし麦穂嬉しき
   我尚

ちよんと切見せる大空玉子にて
   潭北


 享保6年(1721年)9月7日、砂岡我尚没。

 享保7年(1722年)、『今の月日』(潭北編)。

 元文元年(1736年)春、雁宕は京に上り巴人の草庵を訪れる。

 寛保2年(1742年)6月6日、早野巴人は夜半亭にて没。享年67。

 寛保2年(1742年)、蕪村は雁宕を頼って結城にやって来た。

 宝暦2年(1752年)、『反古衾』(雁宕・阿誰編)。

 宝暦3年(1753年)、風光は雁宕宅に遊ぶ。

常陸をしまひ結城鴈宕にしはしはあそひ境阿誰舎に逗留久し


 宝暦5年(1755年)2月、『夜半亭発句帖』(雁宕編)刊。雁宕序。蕪村跋。

 宝暦6年(1756年)5月18日、l砂岡雁宕は千代倉家を訪れて逗留、23日上京。

 一、下総国結城砂岡三右衛門上下弐人ニて御越。表徳雁宕ト申誹人。次郎兵衛江戸ニ而之知人。今夕一宿。夜ニ入三千春、旭阜、蝶羅自分はいかい有。蝶羽事と能後親仁殿よりもはおかい数寄ニて温北丈咄しも有。依之端書有。

囃し囃し馴染あつさの薫哉
   和菊

 要に帋□物の和らき
   雁宕

   名家に寄り□□

昼顔に砂手ならいやいらこ崎
   雁宕

 巣をさがされてうごくあち□□
   蝶羅

事足は雨のふる日に琵琶抱て
   和キ九

 其外ホ句有。金平糖の菓子一箱持参。

五月十九日 くもり雨降昼より快晴 今日も江戸結城俳人雁宕子今夕も御逗留。今夕は次郎兵衛部屋ニ御休。今日李青、□阜、雪房、蝶羅、自分寄合、昨日之ホ句歌仙に取立。

五月廿一日廿日 くもり時々雨降 結城御客今日隠居へ御出。蝶羅宅ニてそば切振舞。歌仙有。

五月廿二日廿一 終日霧雨 京へ荷物□□□□遣 砂岡三右衛門殿分其外用意。

 一、蝶羅部屋ニ今日も雁宕子逗留ニてはいかい有。李青、道玄、三千春御出席。夜四つ過迄咄ス。

五月廿二日 五つ比迄雨降 結城雁宕子昼より三千春へ御出。蝶羅同席。

五月廿三日 未明より五つ迄強霧深。結城俳人雁宕子今日上京出立。四つ比私宅御立餞別。

      頓而聞ん凉所や□□□

蝶羅、亀洞、旭阜、李青、千鳥塚迄見送る。我等曲かね迄送る。しま袷預ケて被参候。九月比下り之筈。京ニ而ハ百万通ニテ清涼院と申寺家ニ御座被成候。

『千代倉家日記抄』(和菊日記)

 明和元年(1764年)9月25日、雁宕は象潟を訪れている。

   明和改元秋九月廿五日到象潟

小鰒よる浪ふところや五湖の秋   武凌隠士
雁宕


 明和8年(1771年)、大島蓼太と一大俳論を戦わせる。『蓼摺古義』

安永2年(1773年)7月30日、没。

結城の弘経寺に雁宕の句碑がある。



古寺や霧の籬に鈴の音

結城の弘経寺に墓がある。

雁宕の句

山清水靭(うつぼ)ヘまはりけり


   君や蝶我や荘子かの夢こゝろと申されけ
   るに

胡蝶舞し君かむかしや夢心


煮凍(こご)りや格子のひまを洩月夜


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