俳 人
下郷学海
明和9年(1772年)、『詞草小苑』(平湯鞍・藤原熊在著)刊。 安永6年(1777年)6月、無量寿寺に芭蕉の句碑を建立。 |
かきつはた我に発句のおもひあり | 芭蕉 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麦穂なみよる潤ひの里 | 知足 |
安永3年(1774年)6月19日、丈芝坊は千代倉家を訪れて2泊。21日、江戸に下る。 |
六月十九日 晴天八つ過ニ白雨暫スル雷ハ不鳴 みちのく俳人京都より戻り丈芝坊、今夕東店泊り。私宅へ見え翁手跡いろいろみせ申候。 |
みちのく丈芝坊に逢ふて |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松島の眼にハおよバぬ青田かな | 如羽 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鳴尾の風にかハくうすもの | 丈芝 |
六月廿一日 終日小雨ふる 蝶羅方ニ逗留被致候俳人野月子、丈芝坊両人細根へ廻り、夫より有松へ被出、関東へ下ル。 |
野月子の東行に送る |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
並松に涼風入よ旅ごろも | 如羽 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
扇より外敷ものもなし | 野月 |
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
安永7年(1778年)7月29日、石牙は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。 |
七月廿九日 快晴西南風涼敷 昨夕被参候甲州石牙子翁笈拝見ニ見える。亀良、仲和、挨拶ニ出る。笈、翁真筆見せる。笈句有。学海留主ニて不逢。是もホ句有。 |
笈句 |
|||||||||||||||||||||||||
幾秋の草葉にすれて笈古し | 石牙 |
||||||||||||||||||||||||
学海留主挨拶句 |
|||||||||||||||||||||||||
蘭好や花にあハぬも又ゆかし | 仝 |
||||||||||||||||||||||||
隠居も不逢してホ句して遣 |
|||||||||||||||||||||||||
前書略 |
|||||||||||||||||||||||||
旅に居て葡萄も数珠ニすられけり | 常和 |
||||||||||||||||||||||||
彳む裾も露重き比 | 石牙 |
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
安永8年(1779年)3月19日、横田柳几は千代倉家に泊り、20日名古屋へ向かう。 |
三月十九日 晴天 一、武州鴻巣横田三九郎殿柳几、松村文蔵殿篁雨、供壱人御越御泊。誹諧歌仙一巻出来。 三月廿日 晴天 柳几、篁雨、今朝名ごやへむけ御立。
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
安永10年(1781年)4月2日、天明に改元。 天明元年(1781年)9月11日、沂風と重厚は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。 |
九月十一日 曇 粟津義仲寺沂風、嵯峨落柿舎重厚、右両子翁笈拜見来。見せ遣。
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
天明3年(1783年)3月5日、沂風は千代倉家を訪れている。 |
三月五日 晴天 粟津義仲寺沂風子御出。 |
永き日や語も床し翁寺 | 学海 |
||||||||||||
笠かたむける花の下かげ | 沂風 |
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
天明4年(1784年)4月8日、敲氷は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。 |
四月八日 雨天 甲州誹人敲氷子、江戸椿年子、右両人翁笈被致一見度由にて、三州舞木其雄子より添状来る。
『千代倉家日記抄』(学海日記) |
おめつちに独歩して世を旅に終り給ひし粗(ママ)の笈を拝して |
松嶋の散松葉あり笈の底 | 甲府平橋庵 | 敲氷 |
|
笈も文もむかしの風の薫り哉 | 椿年 |
『蕉翁笈拝見録』 |
しら梅や露と答ん水の上 |