俳 人
岡崎風廬坊
寛政3年(1791年)、岐阜に移住。麓庵と号す。 寛政4年(1792年)4月、渥美を訪れる。5月末、風廬坊は臥六・為蝶と共に伊良湖に遊ぶ。 |
かくて伊良湖村にさしかゝれば此辺りは都て雪かとも疑ふしら砂にして照込む日盛りの歩行は殊に凌ぎがたし。 砂道に一足ごとの暑さかな |
寛政5年(1793年)、是什坊は風廬坊と共に伊良湖に遊ぶ。 寛政7年(1795年)、風廬坊は奥羽行脚の途次、伊良湖を訪れる。『枝折集』。美江寺に移り以雪庵と号す。 亨和2年(1802年)8月、風廬坊は以哉坊二十三回忌に桜塚を建立。 |
亨和二のとし二十三回の忌景とめぐれるより、其師の菩提所隣村小野なる五大(ママ)山正法蜜寺の境内にして土を運び、石を束ね発句塚を築きて、 差別なふ神も佛もさくらかな |
紅葉して四方を照らさん桜塚 | 東武白寿坊 |
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俤高ふ足る月の秋 | 風廬 |
『佐久良塚集』 |
享和3年(1803年)3月9日、野村白寿坊は美濃へ旅立つ。岡崎風廬坊は岡崎から同行する。 文化3年(1806年)、道統を継承。 |
福岡県吉富町の天仲寺公園にある美濃派の句碑に「聞きまかふ物なし雲に郭公」の句が刻まれている。 |
遠き月の影や留めて塚の花 |