俳 人

二日坊宗雨
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菊池氏、名は晴隆。津の医者。美濃に行脚して廬元坊に学ぶ。

元文2年(1737年)5月、津の四天王寺に「芭蕉翁文塚」建立。



『諸国翁墳記』に「文 塚 勢州津四天王寺アリ 二日坊建」とある。

延享元年(1744年)10月、記念集『文塚』(二日坊里同編)刊。廬元坊序。

文塚の手向や霜に鳥の跡
  二日坊
里同

かけめぐる林下尊き枯野哉
  四日市
玉之

幾回り硯に匂ふしぐれかな
   山田
杜菱

文塚の名に通ひてや浦千鳥
   美濃
廬元坊

真直な道あらはれて枯野哉
   加賀
希因

『文塚』

 宝暦13年(1763年)2月23日、二日坊は巴凌を伴なって陸奥の旅に出る。『みち奥日記』

 明和元年(1764年)、既白は伊勢に遊ぶ。

   既白法師の(ママ)再会をよろこびて
 イセ津
一年に二度見る顔や冬至梅
   二日坊


 明和7年(1770年)、『後文塚』(二日坊里同編)刊。自序。

ふたゝび文塚の小冊を作るや、芭蕉翁のあとはるかなる五十回と、さきの遠き百回忌の中を取て、老の寸志を述るなりけり。これしかしながら、其徳の比良の高根よりも高く、琵琶湖の浅からぬ風雅のいたす所なれば、唐崎の朧はいざしらず、安濃の松原の色かえず、若木の花の末たのみある連中に、四時の月の光をかゝやかせなど思ふ後の事を。

芭蕉忌や麻袴にも風の音
二日坊

魂やどれ其文月の塚ならば
   江戸
蓼太

ふみ塚や文うかゞふて女郎花
加賀千代尼
素園

門へ出て我家詠る蚊遣哉
   
蝶夢

耳に置く霜や夜明の鐘の声
尾州名古屋
也有

『後文塚』

安永4年(1775年)5月23日、65歳で没。

   四月のはしめ山田原に入楚没し、五月のこの比は
   洞津の二日坊みまかりけると聞て

松竹もみな散うせて果は誰

   いせの二日坊か十三回忌に

みしか夜の夢かやきのふ二日坊


「芭蕉翁文塚」の左に「二日坊杖塚」がある。



二日坊の句が刻まれている。

   病中吟

聞たいも病むひとつなり時鳥

初雪や頂いて行踏て行

坐秋建立。

安永7年(1778年)、『杖と笠』(林可編)刊。

天明元年(1781年)、坐秋は70歳で没。

二日坊の句

稲妻や摺違ふたる鐘の声


うはつゐた雲も落つく若葉かな


白魚や青菜に生きる椀の中

『千ひろの陰』

出し入も錦の中や後の月


行秋や松をはなれて風の音


夕立やかたむく草の戸は起ず


昼見えぬさとを夜聞きぬたかな


麦蒔や飯呼ふ聲を吹ちきり


長ふない日影ちゝめてしくれかな


主従が見事にこける雪見哉


けさ落た所うこかぬ一葉かな

『落葉川』

はせを忌や袂は染ぬ硯箱


ほし合や二夜とあらばわらひもの


鴬や棹を寐させるわたし守


雨の後売らぬ心ぞ庵の月


京からの雲を此日の時雨哉


本尊の背中見る日や煤払


暖ふなるにも白し山さくら


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