天明元年(1781年)5月、『七柏集』(蓼太編)。南畝序。月巣序。
天明5年(1785年)、几董は江戸に出て夜半亭を継承。蓼太は几董を伴い太乙舘で俳諧興行。
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於太乙舘中興行
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| 不騫
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閨の梅香をもらさじと逢夜哉
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膚におぼゆるきさらぎの雪
| 几董
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鶯の初音の玉や碎くらむ
| 蓼太
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十歩に景のかはる岨道
| 馬耳
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狩衣に都の月をかざし見て
| 一鷺
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繪も秋されし宿の盃
| 巴人
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温泉近く竹も柏も霧雫
| 完來
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馬かた逃て馬嘶ふ也
| 木奴
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| 『續一夜松前集』
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馬耳・一鷺・巴人・木奴は不騫の家来で、蓼太の門人。
天明7年(1787年)9月7日、蓼太は70歳で没。10月7日、完来は四世雪中庵号と嵐雪伝来の点印とを継承した。
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天明7年(1787年)、不騫は蓼太の句碑を建立。

月を出て月に野やまの入夜かな
天明8年(1788年)、『歳旦歳暮』(完来編)刊。
空摩居士の跡を継て
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四世雪中菴はしめて
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春帖をあらはすなを
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門葉の榮んことを
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賀し侍りて
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| 太乙楼
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奥あれや筆のはやしも花の春
| 不騫
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文政13年(1830年)、不騫の第二子近訓(ちかくに)が松栄山の大給家祖廟に不騫の句碑を建立。
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山姫のもみぢのにしきそめわけて
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みねよりおつる滝のしら糸
| 源昭重
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朝霧は漿(ごんず)なるらん山さくら
| 太乙楼不騫
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昭重は大給(おぎゅう)家二代の祖。近陣。
天保11年(1840年)2月16日、死去。享年87。
墓所は小石川の伝通院。
大分市勢家町の威徳寺に「法声の松句碑」がある。

松風や千代色かへぬ法の声
| 不騫
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松ともに尽きぬ栄えや法の道
| 千条
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明治22年(1889年)、山田雅次郎は不騫の句碑を建立。

よしの芳野かしこは桜ここは梅
不騫の句
朝霧や晴て羽たゝく松の鶴
鵯にあぶらのりけり梅のはな
寒梅や動かぬ水とはなびらと
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