俳 人
伊東不玉
不玉 伊藤氏、醫を業とす、潜淵庵、羽州酒田の人、葛松原を選ブ。
『蕉門諸生全伝』(遠藤曰人稿) |
慶安元年(1648年)、酒田に生れる。 寛文10年(1670年)、京に上り、医学を学ぶ。 天和3年(1683年)、大淀三千風は酒田を訪れた。 |
かくて袖浦の大湊、酒田につく。五大院俳會、連衆廿餘人大寄。 |
湊女や螢を化粧(よそふ)袖のこし | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
船の茂りはさそふうき草 酒田宗匠伊藤氏 | 玄 順 |
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酒田女も下戸子規は得ぞとめね | 同 |
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世をふせ笠に青嵐ふく |
元禄2年(1689年)6月10日、芭蕉は羽黒山南谷別院を立ち、鶴岡の長山重行宅に3泊、13日酒田に到着して伊東玄順亭に2泊する。 |
出羽酒田の湊、伊東不玉亭にて |
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あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ | ばせを |
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海松(みる)かる礒に畳む帆莚 | 不玉 |
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月出ば関屋をからん酒持て | 曽良 |
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土もの竈のけぶる秋風 | 翁 |
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骰子堂 |
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夏の日や一息に飲酒の味 | 路通 |
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夜雨をつゝむ河骨のはな | 不玉 |
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手心をほそき刀に旅立て | 呂丸 |
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秋は子どもに任せたる秋 | 不撤 |
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出屋敷の後はひろき月の影 | 玉文 |
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つゆのしめりにたらゐうつぶせ | 支考 |
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きさかたや千鳥とならぶ鳥[の]海
『旅客集』(第2冊「呂」) |
淵庵不玉という医師については、今日筐(かたみ)として残っておる物もなければ、口碑に伝えられた事実も殆ど無い。ただその名を伊東玄順ということ、その住んでおった家の跡がここであったということばかりが口碑に残っておる。その家は、本町三丁目の俗に下の山という処にある。現に医師某が住んでおるけれども、その家も昔のものでなく、人も不玉の系統を引いたのでないことは明らかである。 手元に参考の書類がないので判然せぬが「あつみ山や」の句を発句にした曾良不玉との三吟の歌仙があったように記憶する。不玉は芭蕉東下以前から一俳風を起しておったろうと思う。三千風の紀行中にもその名が見える。 |
下の山は今の本町三丁目不玉のあとといへば戀(こほ)しも 酒田なる伊東不玉のあとどころ今は本町三丁目にて 「酒田」補遺
『白き山』 |
蓋とるや乾坤万物の初雑煮 物たらぬ能因嶋の師走哉 御座そりや先に立たる道具持 山畑をこけて落たる胡瓜かな 象潟や汐焼跡は蚊のけぶり 名月や灰吹すてる陰もなし |