俳 人

榎本星布



星布の句

 武蔵八王子横山の人。初号芝紅。初め白井鳥酔に学び糸明窓と号し、のち春秋庵白雄に師事。松原庵二世。

可都里『名録帖』に「星夫(布)八王子 井筒屋忠左衛門母」とある。

 享保17年(1732年)、八王子市横山宿の榎本忠左衛門徳尚の一人娘として生まれる。

 延享4年(1747年)、父再婚。継母は俳人仙朝。

 寛延2年(1749年)、津戸信親と結婚。

 宝暦5年(1755年)、俳号芝紅を星布に改める。

行暮て野に音拾ふきぬた哉
   
 仙朝

川蝉や柳を誘ふ水の音
  芝江改
 星布


 宝暦6年(1756年)2月29日、鳥酔は松露庵を出て大坂に向かう。星布の糸明窓に宿る。

      榎本氏か許にやとるその母仙朝その室星布とともに
八王子
      途中の雨を乾かすこゝろさし厚し

春雨や耳にわすれぬ杖の音
   仙朝

笠の端に忘れぬ香あり花の雨
   星布


 宝暦13年(1763年)6月、松原庵成る。

捨てある下駄に用あり梅の花


 明和6年(1769年)4月4日、鳥酔は69歳で没。

 明和7年(1770年)8月1日、夫信親没。

 安永7年(1778年)5月30日、父忠左衛門徳尚没。

 天明元年(1781年)、加藤暁台は星布を訪ねたようである。

   武州八王寺(子) 星布

暁のほしを緡(つづ)りしやなぎかな


 天明8年(1788年)4月9日から1週間、加舎白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行った。

  同年8月10日、白雄は八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許す。

   ことし卯月半にや春秋主人
   ともに鮫洲なる先師のあとをしたひ
   まひらセしに、住給ひし庵ハいつしかたゝ
   しら波のよるへのミ、其涙袂をひたしつゝ
   其松原庵の三字をあか糸明窓にうつ
   さん事をさゝやき侍りけるを、春秋主人
   よしともいなともきこへさりしか、葉月十日
   あまりになん杖をひき給ふ、さちなる哉、けふ
   よりして糸明窓を松原とよひかへん事
   友かきこそりての願にして、雅筵のおも
   むきをとなふ、師いまさはと思ふはかり
   なり、猶此道の長からん事を

しるやけふ鴈も名のりし松の庵


 寛政2年(1790年)、白雄は碩布を訪れ、橿寮で芭蕉忌を営む。星布も参加した。

 寛政3年(1791年)9月13日、白雄没。

   白雄大人の病中をとはんと、はるはる
   来りしに棺送していまやかへりしとなん
   あしすりをして泣ともかひなし

月さひしうつゝの槇ハそれなから


 寛政4年(1792年)9月4日、鳥酔の忌日に当り髪を下ろして尼となった。

 寛政5年(1793年)、『星布尼句集』(喚之編)刊。喚之は星布の子。

 寛政12年(1800年)8月、星布は芭蕉句碑を建立。

芭蕉句碑


蝶の飛ふはかり野中の日かけかな

同年12月、子息喚之没。

八王子

喚之
   井筒屋忠左エ門


喚之の句

くだら野や髪薙て行人にあふ


鳥飛やかたゆふぐれのかれやなぎ


晩鐘や旅のゆふべをやなぎちる

穴師吹夜やあら礒になきちどり


閑にたへて月に犬うつ子等寒し

   力士が酔泣しけるを

相撲取四十の秋をかこつ哉


薄すみれ艸かや姫のこもるらし


世はあらしちればぞ人のはつざくら


螢ひとつ秋しる夜半に似たる哉


世はあらしされはそ花のはつ桜


西行の生れ日はいつ仏生会


春かせや巾かなくりて磯つたひ


春雨や我にほうけしふきの台


花ハむかし世ハミな月の臺なり


燭の火に土産のみの虫啼ぬ哉


梅に月へだてなき夜となりにたり


 享和元年(1801年)8月、記念集『蝶の日かげ』上梓。

 文化3年(1806年)6月18日、菜窓菜英は星布を訪れている。

十八日朝晴、星布、其たけ等を尋ね、駒

木野の関越て、高尾山を拝し、風流

も中々に尋て、小佛峠に到る。


 文化6年(1809年)2月16日、太田南畝は松原庵星布を訪ねている。

○二月十六日、八王子横山村松原庵をとひて、星布尼にあふ。年七十八なり。誹諧の師は白雄房也。白雄の師は鳥醉なり。品川鮫津に松原庵とてありしを、鮫津よりゆづられしと云。耳もさのみうとからず。おとなしやかに健なる老婆也。

「玉川砂利」

 文化11年(1814年)、金井萬戸は松原庵星布を訪ねた。

同年12月28日、83歳で没。

八王子市元横山町の大義寺に墓がある。



咲花もちれるも阿字の自在哉

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