俳 人

坂井鳥奴〜可明・鳥瀾〜

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本名坂井要右衛門兼甫(かねすけ)。井々軒篤志。半輪下。

鳥奴   信中戸倉 
   坂井要右衛門 


北国街道下戸倉宿で400年にわたり代々酒造り営んできた「坂井醸造店」

酒造コレクション母屋


 寛保元年(1741年)、千曲市の酒造家飯島彦三郎の次男として生まれる。

 宝暦10年(1760年)、縁戚の坂井の養子に入る。妻は先代坂井五助の未亡人いつ。いつとの間に信敏が生まれる。

 明和4年(1767年)、加舎白雄は十竹窓柴雨を訪問。柴雨の隣に住む酒造家坂井篤志が鳥酔門下に入る。

翌年、鳥酔から鳥奴の号を与えられる。

 明和5年(1768年)8月、白雄は戸倉を訪れる。この時、宮本虎杖が白雄に入門している。

8月15日、姨捨長楽寺で観月句会。
8月16日、鳥奴宅で句会。
11月16日、鳥奴宅で句会。

 以来加舎白雄に親近、白雄は江戸の名家として天下に知られてからも必ず坂井家を訪れ、酒や蕎麦のもてなしにあずかっている。

 明和6年(1769年)8月15日、加舎白雄は姨捨山に芭蕉面影塚を建立。

(うつたか)し塚の前なる月の雪
  無物庵鳥瀾

碑の前やおのづからなる萩と月
  半輪下鳥奴


 明和7年(1770年)8月22日、鳥奴宅で句会。白雄は高桑闌更と論争。

 安永2年(1773年)3月21日〜4月21日、鳥奴は簾雨・欄二と関西行脚。

 天明2年(1782年)2月、信敏は近畿、四国、中国旅行に出立。宮本麦雨同行。

 天明2年(1782年)、鳥奴は諏訪記行。

   和田嶺にて

水音のしげみにこもる嶺かな


 天明5年(1785年)、信敏が家督を継ぐ。要右衛門を襲名。俳号可明。

 寛政5年(1793年)、信敏は下戸倉宿の名主となる。

文化4年(1807年)2月9日、鳥奴は66歳で没。

文化12年(1815年)7月6日、可明は54歳で没。

鳥奴の句

陽炎や箒ぬれたる魚の棚


碑の前やおのづからなる萩と月

よろよろと翌も伸るかたち葵


しら魚や見附を越しぬり手桶

なのはなや中に真青なはなれ山


犬の吼る近道行ば椿哉


曙に交るものなきさくらかな


蓮咲て乞食のめしのしらげ哉


ゆふ栄やつれなきぼけの咲ところ


かげらふやきえきえて水の音となる

秋かぜや藻屑をそゝぐまのあたり

野はかれぬ千もとの松は千もとなる


ものたらぬものには酒よ汐干がり


人は何と我はさびしき鶏頭花


はる風に三日月の空ワかきかな


   鈴鹿の山越せし唄

関はむかし夜明のさくら静也


(すゑ)風呂によばれて出しこたつ哉

虫の音のさえて地にしむ月夜かな


   友ハ樽裡の酒客ハ醉中の歌

夕風や手つよき梅の咲ところ


黄鳥に日のいろ若し笹の風


春の山鳥の名ハあれなかれ


可明の句

山吹や蕗の葉にかゝる水の音


さなきだに秋ふかき秋を鳩ふきす


夜やかすむかた山里の月ふかき

しづかさや団扇にくるゝ九十九髪


礒やまのさくらちりこむ干魚哉

いなづまの落こむ波のかへし哉

稚子の陽炎を追たもとかな


葛萌て油煙ながるゝ夜燈哉


まつ風の雨となるなるあきの暮


ちるや桜既夢にもむすびしを


をりかはる鳰みかくれのうき巣哉


白うめに雨後の心のうかミたり


月夜よし椎かもとなるたかむしろ


 鳥瀾は鳥奴の兄。飯島喜左衛門。酒造家。無物庵。鳥酔の門人。のち白雄門下となる。

春風や暮の鐘きく酔(い)こゝろ
   亡人鳥瀾


鳥瀾の句

ひる顔や露うちあげた花の形


炭焼の酒ほしけなり初桜


碓の音は隣かふゆの月


おりおりに虱供養す夏百日


曇るともこよひは星のはやし哉


桑衣は鳥瀾の子。無物庵。

桑衣の句

日に薄くくもる葵の深みかな


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