俳 人
遅月庵空阿
寛延3年(1750年)5月、備中国小田郡笠岡に生まれる。俗名丸山幸之助守邑。 明和5年(1768年)、京都の安養寺で仏門に入り、芭蕉庵四世不二庵二柳に俳諧を学ぶ。 天明8年(1788年)、成美は遅月を迎えて句会を催している。 天明8年(1788年)、『一夜流行』(成美・遅月編)刊。重厚序。 寛政元年(1789年)4月、遅月は江戸を発ち奥羽旅行。宗讃は共に鹿島に遊ぶ。 |
梢の雨かしまの里を過て、朝よさを松嶌の浦にあそばむと、卯のはなの雪をふみ、ほとゝぎすに笠かたむけて出たつ人は、浪花の遅月上人なり。そのわかれに望(臨)みておもふことあり。去年の冬ならん、わが随斎にひらつゝみをときて、すみだ河に木がらしをきゝ、三またの雪に歩をともにして風雅のまことをかたりしより、われいさゝか峨々洋々の音をしれり。 |
寛政元年(1789年)、水戸に来遊。佐久間青郊と会う。 |
古人青郊此道に於て名を東海に震ふ。余に会せし時已に古稀にして猶此道の奥を探らんとす。謂つべし其心高く志厚して今の青郊道に志の厚と又先人にゆづらずこたび一集を梓して句請ふに応ず |
其あとの空を捨ざるひばりかな | 遅月庵 |
『青郊襲号記念集』 |
同年、『俳諧水滸伝』成稿。 寛政3年(1791年)5月まで塩竈、松島に逗留。 寛政4年(1792年)閏2月、平潟の草庵に入る。 寛政5年(1793年)4月6日、水戸の神崎寺に住む。 寛政11年(1799年)7月、岡野重成は三世湖中を継ぐ。 文化2年(1805年)10月、飯富村の竜光院に芭蕉の句碑を建立。 |
奥山のともし火きえて杜宇 野菌やくけふりなりけり秋の暮 陽炎や窓に日のさす雪の富士 廿日たつ春のちからや闇のうめ 世の春をおのれがましや海老の髭 有合すものは月なりはつ時雨 花鳥に空はつかへておぼろ月 雲の峯家は柱に事たりぬ 枯かつらたくるも人の師走哉 哀とし夕ぐれ黄菊見えわかず たゞたのめ草の露まで薬なる 水を見ても笑が如し春の月 ぬれてこそ海士が子といへ夏の海 駒鳥に大黒舞を見せうもの 老はものゝ桜見るにも泣れけり 水鳥のづぶりと春の行え(へ)哉 乙鳥や臼と小藪の其中に 黄鳥も觜あらためよ薺粥 水見ても笑ふが如し春の月 |